ブルメシア王国首都において霧の三大国間での友好条約が結ばれ、新時代の幕開けとともにパック・ブルメシアが新王に即位した。
それから間もない、暖かな春の正午前のこと。ジタンは大尉に昇進して与えられた執務室で書類を捌いていた。
ペンが滑る音と紙の擦れる音ばかりが響くささやかな部屋に、強いノックの音が割って入ったかと思えば、ジタンが返事もしないうちにドアが開く。それだけでジタンはワッツが来たのだと分かった。
「隊長、急ぎの書類が来ました」
「何の案件だ?」
「デドリー侯がリンドブルムまで足を伸ばす膝元の商人の護衛を申請したそうで、うちの隊に回ってきました。出立は半月後、合計三十五人で内五人は彼らの護衛として付く侯の私兵だそうです」
「半月か。厳しいな」
デドリー侯の領地はリンドブルム公国最東端にあり、リンドブルム城からデドリーまで行くだけで一週間以上かかるのだ。デドリー侯の領地に隣接したデレク地区はジタンが所属するビッグス隊の担当だから兵をそちらから都合することもできるが、一般人三十人に加えて素性の知れない兵五人を相手するとなると多くの兵が必要になり、人員を割けば割くほどデレク地区の戦力が低下してしまう。近くの地区から少しずつ兵を出す手もあるが、そうなると編成の手間がかかるし、この任務を新たな隊で当たるのは心もとない。
近頃デドリー侯に関するきな臭い話をよく耳にするから、この案件を軽く考えるわけにはいかないのだ。
「城下町までずっとオレの隊だけで当たるのはキツイなあ」
「ノマラニアビーチ西部からはジェシー隊が引き継いでくれるそうですよ」
「お、そりゃ良かった。そっちの担当は誰だ?」
ワッツは楽しそうに微笑む。
「ロナルド大尉ですよ」
ロナルドと所属が別れてから二ヶ月。仕事で顔を合わせるのは初めてのことだった。
引き継ぎに関する話をするだけだから大した時間も要らないということと双方の仕事の都合で、打合せは空いている小部屋で担当官のみで行うということになった。
それは、ジタンにしてみれば都合が良かった。
忘れ去られた大陸より帰還してから、シドの配慮もあり、ジタンは様々な勉強を始めるようになった。帝王学を始めとする治世に関する諸事はシドから、霧の三大国の成り立ちや周辺諸国に関する歴史はオルベルタから、軍学だけでなく各国の軍の規律や特色はビッグスから、礼儀作法や貴族の情勢・彼らの介入によって起こった事件などに関してはロナルドから時間を遣り繰りして教わっている。それぞれ分かりやすく教えてくれるのだが、半端じゃない情報を頭に叩き込んで身につけないといけないため疲労が蓄積されていくのは否めない。
それでも、こういう他人の介入なく話ができる時間を見つけるとジタンは喜んでしまう。そうしてまで勉学の時間を確保したいのは、その苦労の先に美しい小鳥が待っていると確信しているからだろう。
「打合せはこれくらいでいいな」
「そうだな」
ロナルドは書類を一まとめにして整えると、腕を組んでジタンの眼を真直ぐに見つめた。楽な体勢をとりながら、ジタンも真直ぐロナルドに視線を返す。
「それで、デドリー家とはどういう家系で、デドリー侯とはどんな人物だ?」
「デドリー家はリンドブルム王国建国前から勢力を誇っていた部族のひとつで、王国建国直後に現在デドリー領となっている地域で起こった紛争を鎮圧した功として侯爵に封じられ、紛争の首謀者であった領主に代わって代々領主を務めている。現当主のビンザー・デドリーは愛国心は強いが大公疎隔派の筆頭。奥さんも長男も疎隔派だが、次男坊は親善派だし娘たちは確たる立場を示していない。あと、次男坊は二回目の西方調査のときに開拓団を率いて魔物との戦闘時に崖から滑落して負傷し……リンドブルムの軍病院で療養中だっけ?」
「ああ。彼はその事故が元で左腕を失っている」
デドリー侯の次男ジェフリーが率いた開拓団は、ジタンとロナルドのときを除く三つの開拓団の中で一番調査が進んだ。最後の開拓団派遣時に持って行った食糧や医療品などの調整には、彼らの情報が大変役に立ったと聞く。実際には、それでも不十分な点が多数あったのだが。
「親や兄と比べ、彼は元老たちからの人気が高い」
「親も跡継ぎも戦い好きの強硬な男だもんな」
「だが、元老たちも大公もデドリー侯を失墜させていない。なぜだ?」
「デドリー侯自身が切れ者でそうそう尻尾を出さないってのもあるけど、なにより、まずリンドブルムはデドリーが乗っ取るには遠すぎるからな。大軍を編成しても、都に進軍するとなると補給線は大陸を横断するくらい長くなっちまうし、デドリーと都の間には大公親善派が治める土地が多いから簡単には進軍できない。特に親善派の筆頭に挙げられるボーデン侯はデドリーに並ぶ名家だし、軍事力も比肩するからな。仮に順調に進軍できたとしても、補給線が伸びきったところを横から突かれたら一発で終わりだ。デドリーが都を襲う恐れはない」
「それだけか?」
「デドリーとボーデンは、アレクサンドリア――特にトレノに対する鉄壁になる」
アトモス戦役と呼ばれる宣戦布告なしのアレクサンドリアによる攻撃は、いまだ記憶に新しい。そのとき、ボーデンは南ゲートの修復と防衛線の強化に追われ、西部一帯はブルメシアへ応援を送ったために防衛がずいぶんと手薄になっていた。そこをアレクサンドリア軍に突かれて制圧されてしまったのだ。
そんな状況下、都が陥落しながらもその被害が地方へ広がらなかったのは、ブラネの狙いがリンドブルム国宝『天竜の爪』と新型飛空艇にしかなかったことと彼女の目が次の目標である外側の大陸へ移っていたこと、各地の領主の対応が迅速で的確だったこと、そしてデドリーがトレノに睨みを利かせていてくれたことが上手く重なったからだ。
「それらの情報を踏まえたうえで、アレス、今回の動きをどう思う?」
「もともとデドリー侯はシドのおっさんと反りが合わないだけで愛国心は強いしプライドも高いからトレノと結託するようなことは考えられないし、何か企んでいたとしても、すぐに何かしようとは思ってないだろうな。今回の動きは……多少の無理を言ってリンドブルムがどう対応するか下調べってところと、新参者のオレとロナルドの情報集めってところじゃないか?」
「ああ、私もそう思う。商人三十人という報告だが、商人見習と称して密偵が何人か紛れ込んでいるだろう」
「あ、なるほど」
その担当にジタンとロナルドを据えたということは、シドはデドリー侯の考えに受けて立つと決めたわけだ。
「それに見落としているようだが、殿下たちがデドリー侯を失墜させない理由はまだあるぞ。デドリーは特産物に目ぼしいものはないが物流の要だから、そう気軽に紛争地帯にするわけにもいかず、簡単に手が出せないんだ」
「そうなのか? 物流って言ったらボーデンだろ?」
「生活必需品や主要な武具に関してはそうだ。だが、特殊な魔法具や装飾品の産地はアレクサンドリアの沿岸諸国に集中しているから、山を越えず陸沿いにデドリーを通ってリンドブルムに流れてくる数の方が圧倒的に多いんだ。――そして、見誤るな。リンドブルムにとってデドリーが脅威なのは、リンドブルムを潰されるからではなく、デドリーが霧の大陸で唯一リンドブルムを上回る商業的に飛び抜けた要塞都市になりうるからだ」
そう言われて、ジタンは前に聞いたバクーの呟きを思い出した。たしかあのとき、バクーは「東はリスクが高いが、獲物がでかいから魅力的だな」と言っていた。直後にトレノのキング家で仕事があったからそのことを差していたのかと思っていたが、結局、あそこは苦労させられた割に大して得るものは無かった。もしかしたら、あのときバクーはデドリーについて言っていたのかもしれない。
「まだまだ詰めが甘いが、よく勉強しているようだな」
「お蔭さまで」
まさかこんな状況になるとは思っていなかったから仕方ないかもしれないが、裏社会に身を置いて生きていたジタンは多くの学べるはずの物事を見落として来たのかもしれない。
そのとき、軽くジタンの肩が叩かれる。
「焦るなよ。どうせ、今すぐ小鳥を迎えに行くことなど無理なんだからな」
ロナルドはふっと薄く微笑むと立ち上がった。つられるようにジタンも笑みを溢すと、二人並んで部屋を出る。
所属が変わっても一緒にいることに違和感がないのは、プライベートでも何度か飲みに行ったりしているからというのもあるだろうが、付き合いの長さもあるのだろう。なにせ、開拓団の隊長として顔を合わせてから十ヶ月も経っているのだ。その時間は、霧の大戦中に仲間と世界中を駆け抜けた時間よりずっと長い。
旅が終わり、仲間たちは自分の在りたいと願う場所でやりたいことをして生きている。ジタンが今、リンドブルムで一兵卒として働くのもそうだ。言ってしまえば、あの旅はそれぞれの人生の中ではちょっとした通過点でしかなかったのだ。たまたま、道が重なっただけ。それはジタンとロナルドがリンドブルム城の小会議室の前で肩を並べている今も同じことで、たまたま、二人の道が重なっていただけで、どうせすぐに別れてしまう。
けれど、ジタンが旅を共にした仲間たちを深く心に刻んでいるように、ロナルドもまた、ジタンの心に深く刻まれているのかもしれない。
「そういえば、まだ決定したわけではないが、アレスの隊は近々遠方の駐在にあたるそうだ。目ぼしい本をいくつかリストアップしておくから、出先で目を通すといい。遠征をいいことに怠けるなよ」
「ああ、分かってるって」
それだけ言い、別れの言葉を口にするでもなく、ロナルドは右、ジタンは正面へと歩いていった。
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