近くに沼があるため酷くはないが、決して弱くない砂埃が纏わりついてマントを強くはためくかせる中、八十人の兵と五人の学者が整然と並び、前に立つジタンとロナルドを見つめている。辺りを満たす音は、風の唸りと布の擦れる音だけだ。
ジタンとロナルドは視線を交わすと頷き合った。
ロナルドは一歩前に進み出て、口を開く。
「皆――今まで、よく頑張ってくれた」
遡ること数刻。
ジタンとロナルドが並んで座る机の前で、学者の一人が淀みなく調査報告書を読み上げている。それは例によって例の如く蟻の群れと見紛うほど細かい文字で埋め尽くされた報告書で、今まではジタンとロナルドが目をしばたたかせながら自力で読んでいたものだ。しかし今日は学者が読み上げてくれる。
それは、今日が今までと違う特別な日であるからに他ならない。
「――以上が、今回の調査によって得られたデータの全てです」
そう。今日この報告を以て、忘れ去られた大陸の鉱脈調査は終了する。
「ありがとうございます。ご苦労さまでした」
「本当に、ご苦労さん」
「いえ、こちらこそ私たちを護っていただいてありがとうございました」
「それが我々の仕事です」
書類を差し出して笑うシンラ・ミズガルズという学者はまだ青年と呼ばれる若さで、開拓団に配属された学者の中で一番若い。それでもジタンやロナルドよりは年上なのだが、体力気力自慢の志願者を始めとする兵たちすら疲弊する今回の派遣に遂に限界を迎えたのか他の四人の学者たちは次々に気が抜けてしまい、一番体力が残っていた彼が最後の大仕事である最終報告書の作成を一手に引き受けたという。
「ところで、ミズガルズ博士は魔物の研究に戻られると小耳に挟んだのですが」
「はい。今回の派兵で魔物を間近で見るようになって、そちらの分野の研究意欲が刺激されたようです。といっても今は紙が無いので、帰国次第、頭に叩き込んだ知識を書き起こさなければならないのですけれどね」
苦く笑うシンラを見たロナルドは、意味ありげにジタンへ視線を移す。
その視線を受け取ったジタンはロナルドの音の無い声に応え、何気ない雰囲気で、
「じゃあ、何か気にかかることがあったらオレに言ってくれよ。そこいらの奴よりは知っている自信はあるからな」
「そう言っていただけると、ありがたいです。帰還後すぐは慌ただしいでしょうから落着いた頃にお時間があれば、ぜひ」
どこか老成した微笑みを浮かべたシンラは、その後いくつかの事務処理を終えると自分たちのテントに戻って行った。
そうすると、もうジタンとロナルドにはすることが無くなってしまう。いつもなら調査報告書に目を通すのだが、それは今さっきシンラが音読してくれたお蔭で必要無くなってしまったし、任務を終えて帰るばかりの現状では明日からの編隊に関する話合いも必要ない。
今は昼を回って少しした頃合いで、陽光に熱を上げた空気はまだ温まりきれていない海水の冷たさに身を捩るように踵を返し、海から内陸へ向かって風が吹いている。ほんの数日前までだったなら細く入り組んだ谷間を抜ける風が侘しい音を奏でていただろうが、今はもう平野に出ているためテントの幌を強かにはためかせる音しか聞こえない。しかし、そんな音も二ヶ月以上も聞き続ければ無音と同じようなものだった。
さざめいた沈黙の中で、ふとジタンは口を開く。
「そういえば、オレは帰った後も仕官するけど――ロナルドはどうするんだ?」
多くが志願兵で構成されている今回の開拓団は、大公直属の部隊であるため少々特殊な扱いになるだろう。今までは調査と生きることに必死だった兵たちも、今後の身の振りに漠然と不安を抱いているようだ。すでに退役を決めた者もいると聞く。
「どうも何も、私は元から仕官していた。まさか知らなかったとは言わないな?」
「いや知ってるけど……でも、ちょっと前までは文官だったんだろ? 『武官をやる気はない!』と思ってたりとか、さ」
退役を決意した者は、先のモルボルによる襲撃の恐怖が拭えないことが理由だった。ワッツが言うには、新兵や徴集兵の多くは戦争や戦闘で辛い経験をしたりすると精神的ダメージを受けて兵役を続けられないどころか日常生活に戻ることもままならないという。
そして、それと似た傾向が魔道士にも言えるという。魔法の訓練中、とりわけ新たな魔法を修得しようとしている段階において無理に魔法を行使したり暴発させたりすると術者にダメージが返ってくる。特に黒魔法はその危険が大きく、白魔道士に比べて黒魔道士の数が少ないのはこの経験を乗り越えられるだけの精神力を持つ者が少ないためだ。
先日、ロナルドはウイユヴェールを隠すために使ったことのない魔法を行使して負傷した。しかも負傷しながら降ってくる瓦礫を掻い潜って崩れていく崖の間を駆けたのだ。モルボルの急襲によって死を予感したのとは別種であろうが、心に恐怖が貼り付くには充分な経験だ。
しかし、ロナルドは何事もないように言う。
「文官も悪くはないと思っていたが、武官も悪くない。だが、そうだな……他の道も悪くないだろうな。といって武官を辞める気も今のところはないが」
ロナルドは微かに笑む。
それを見て、どうしてだかジタンも楽しくなってきた。シド曰く、曲者で無愛想で上官受けが悪くて切れ者だったせいで違う畑に飛ばされた青年が、目の前でとても穏やかな様子で座っている。
「ロナルド隊長、アレス少尉、モグオさんがいらっしゃいました」
静かな空気が流れを断つように、幌の向こうからニーダの声が掛った。ついでに、陽気な声も聞こえてくる。
「アレス、ロナルド、手紙を届けに来たクポ!」
テントに入って来るなり、モグオは胸を張って手紙を差し出してくる。
彼には昨日リンドブルム大公宛の手紙を届けてもらい、返信を受け取って来るよう頼んでおいた。トンボ返りになってしまい疲れているはずの彼が上機嫌なのは、モーグリの好物である『クポの実』を与えてくれるよう調査終了の報に追伸で書いておいたのが効いたのかもしれない。
「ちゃんと昨日中に届けたクポッ」
「ご苦労さん。ありがとな」
ジタンが労いとして水を渡すと、モグオはとてつもない勢いでそれを飲み干した。やはり疲れているようだ。彼は人使いの荒い待遇には容赦なく嫌悪を表すが、なんだかんだで人がよくて頼まれたら断れない性格をしているから、今回も頑張って全力疾走してくれたのだろう。
「それで、ロナルド、おっさんは何だって?」
振り返れば、もう読み終わったのか手紙をジタンに差し出してきた。
「明日、迎えの飛空艇が到着するそうだ」
そう言ったロナルドの表情は相変わらずの無表情に戻っていて、ジタンは思わず笑ってしまった。
今いる場所は、七十日ほど前に忘れ去られた大陸に降ろされた場所のすぐ近くだ。
ほとんどの者が軽重の怪我を負っているものの、誰一人欠けることなく最初の場所へ戻って来ることができたのだ。
ロナルドが朗々とした声を発する。
「明日、本国より迎えの艇が来る。そして今ここには、先に三度派遣された開拓団が成し遂げられなかった成果がある」
ここまで来るのに、色々なことがあった。――上陸直後に体調不良者が続出し、行軍初日には魔物と遭遇してパニックを起こす者が出て、最初は兵と呼べなかったような素人たちがメキメキと成長していき、挙句の果てには謀反が起きて隊長・副隊長を置き去りにした。そのうえ魔物の襲撃を受けて壊滅の危機に瀕し、危機を脱したかと思えば第一隊長が負傷し、隊を分割する破目にまで至った。
しかし結局のところ、死者を出すことなく謀反も治めて体系も戻り、全ての山脈の調査を終えた。そしてジタンとロナルドの後ろに張られているテントには、その少人数で成し遂げられた壮大な行軍の記録が収められている。
「我々の手で、我々が勝ち取ったものを、霧の大陸へ持ち帰るぞ!」
乾いた空に響くロナルドの言葉に応え、大山を崩すほどの歓声が上がった。
腹の底に響く感覚に微笑み、ジタンは遥か東の空を見上げた。
――やっと一歩、彼女の居る高みに近付くことができる。
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