幸いなことに、日没後に出立してから休憩をとるまでの間に魔物が出現することはなかった。
 今は二つの月が南天に差し掛かり、吹く風は昼間と変わらず恐ろしいほどに乾いているが昼間と一転して肌を切り裂くように冷たい。月明かりの下で隊員たちは寒さを凌ぐために身体を寄せ合っている。
 皆、羽織っているマントに全身を包むように座り込んでいて立っている者は少なかったため、その中を歩く姿はとても目立ち、四人はすぐに集まることができた。
「アレス、そちらはどうだ?」
 語尾を上げない突きつけるような発音に、ジタンは微苦笑を浮かべながらも報告する。
「一人だけ足の筋肉が痛いって訴えてる奴がいるが、こんなに早く症状が出たんなら多少無理してもすぐに慣れるだろう。怪我人はいない。貨物の具合も大丈夫そうだ。――そっちは?」
「まだ到着直後からの症状が抜けない者が一人いるが、隊列を崩すこともないし、本人も大丈夫だと言っている。こちらも怪我をした者はいない。貨物も大丈夫だ」
「そっちの、えーと……」
 ジタンが自分の事を言いたいのだろうと察し、ロナルドの副官が敬礼する。
「ニーダ・スティアラー軍曹であります」
「ニーダは何か気付かなかったか?」
「いえ、特には」
「アウルヴァルト軍曹はないか?」
「はい、ありません!」
 ワッツは元気に返答する。
 ニーダは黒髪に黒い瞳で長身だが、細身で本来の身長より更に背が高く見える所はロナルドに似ている。組み合わせを見ると、似た者同士が正・副隊長になったようだ。
「では、あと少しの休憩をとったら出発、ということでよろしいでしょうか?」
 ニーダは落ち着いた声で二人の隊長に訊ねた。二人は同時に頷く。
「隊を整えて、八分後には出発する」
 懐中時計を見ながら言ったロナルドの言葉をきっかけに、そのまま四人は別れようとするが、少ししたところでジタンが突然声を上げて足を止める。他の三人も彼の声に振り返った。
「言うの忘れてた、全員に武器をいつでも取れるように言っといてくれないか? あと、途中でスピード上げるから承知しておいてくれ」
「何故だ?」
「この後通過する草原地帯では夜中に魔物が多くいるんだ。たいていは草むらの中で暖を取っているから、急いで静かに通過すれば襲うことはあんまり無いんだけど、一応な」
 ジタンの知識に二人の副官は少しだけ訝しげな表情を浮かべる。ロナルドは見通すような真っ直ぐな視線を向けてくる。
「わかった。伝えておこう」
 ロナルドは少しの間ジタンを見つめると、そう言い残して自分の隊員が多く集まる方へ歩いて行った。
 そしてこの事は静かに、且つ迅速に隊員の間を伝わっていった。――未知の大陸の魔物と対峙する時がくるかもしれない、と。





 月がずいぶん西に傾いて遥か向こうに草原の終わりがようやく見え始めたとき、先頭を歩いていたジタンの肌は後ろの隊が発したざわめきを感じ、耳はガラガラと何かが崩れる音を捉えた。
「何があった?」
 ジタンの小さな呟きに、ワッツがすぐに報告を返す。
「後行の小隊の貨物が崩れたようです。急いで直しています」
 タイミングの悪いことに、現在、隊は草原の丁度真ん中にいる。
 ジタンは心の中で舌打ちをした。
「……隊長、大丈夫でしょうか?」
 ジタンと同じことを考えているのだろう、ワッツが眉間に少し皺を寄せながら訊ねてきた。その表情は、足止めをした隊に対する怒りというよりも未知の魔物に対する怯えが強い。
「静かにしていりゃ大丈夫だろ」
 そのとき、近くの隊から悲鳴が上がった。
「魔物だ! 魔物が出たー!!」
 声を聞いたジタンが素早く視線を走らせると、東の方角に一対の眼が小さく光っていた。
「様子を窺っているだけだ、静かにしてれば害はない」
 ジタンは魔物を刺激しないよう、隊員たちに届くぎりぎりの小さな声で言う。
 だが、内容は素早く伝わったはずなのに情けない叫び声は静まらなかった。
「誰かそいつを黙らせろ!」
 再びジタンが言うが、やはり声は止まない。
 急ぎ足でジタンが悲鳴の方へ向かおうとすると、視線の先で瞬く瞳がさらに一対増えた。
「まずい!」
「隊長!?」
 突然進路を変えて、隊列の東に駆けだしていくジタンに驚いた声を上げながらワッツが続く。
 ジタンは彼の声を無視して、全隊員へ届く以上の声を張り上げた。
「第一小隊のうち第一・第二分隊、第二小隊のうち第二分隊を残し、他の隊は荷を纏め次第草原を抜けろ! 離れずに一塊で行け! 出来るだけ音を立てず、警戒を怠るな!」
「アレス!」
 隊の後方からロナルドがジタンの隣に駆け寄る。
「静かにしなければいけないのではないのか?」
「メスが現れたんだ。あいつらは丁度、出産期を終えたばかりで赤ん坊を守ろうと気がたっている。いまさら逃げようとしても無駄だ。下手すると、他の奴も現れるかもしれない。だから、こっちが騒いで引きつけている間に残りを逃がす。お前はワッツと一緒に行ってくれ。ここはオレとニーダでやる」
「わかった」
「ついでに、あいつも頼む」
 そう言ってジタンがそちらを見ずに親指で指さしたのは、先ほどから悲鳴を上げていた隊員だ。今は腰が抜けているのか、座り込んだ大きな身体には力が入っていないようだった。
「立てない奴を運べと言うのか?」
「なんだよ、動けないのか? しょうがないか……気にしないで行ってくれ。魔物を倒してからオレが連れて行く」
 貨物を纏め直せたのか、ワッツが準備万端といった表情でこちらを見ている。ロナルドは、気を付けろ、と言ってそちらへ行くと素早く指示を出して立ち去っていった。
 無事に隊列が動き出したのを見届けると、ジタンは声を張り上げた。
「他の魔物が出ないうちに片付けるぞ!」
「アレス隊長、作戦はあるのですか!?」
「メスを狙え! 奥にある巣には攻撃するなよ!」
「どっちがメスですか!?」
「デッカくて、角がある方がメスだ! オスは放っておけば襲ってこない!」
 まるでジタンの言葉に従うように、二匹のうちの小さい方は奥の草むらに戻って行く。対して、大きな方は草むらから出てきて全身を露わにした。
 小さな頭とそこから生えている二本の曲がった角。太く長く伸びた首に、首と同じくエメラルドグリーンの毛に包まれた頑丈そうな身体。一対の目は殺気を帯びて、血色に光っている。
「とにかくヒット・アンド・アウェーを繰り返せ! 角には引っ掛けられないようにして、様子がおかしくなったらすぐに離れろ!」
 そう言うジタンは、魔物から離れた所で先ほどの腰を抜かした隊員の横に腕を組んで突っ立っている。
 その様子にニーダは訝しげに眉根を寄せた。
「少尉、どこから攻撃すればいいんですか!?」
「少尉、弱点を教えてください!!」
「隊長、こいつに魔法は効くんでしょうか!?」
 得物を持って魔物と対峙したまま、兵たちは口々にジタンに教えを乞うた。
 しかし、ジタンは貨物を護衛している隊がずいぶん遠い所に行ったのを確認すると、ニッと笑い、
「自分で探してくれ! あ、ちなみに、そいつはカトブレパスって名前だから」
 と言った。
「隊長!?」
 全員がジタンの投げ遣りな発言に驚きの声を上げる。中にはジタンを振り返る者もいた。
「バカ! 敵から目を離すな!!」
 そのとき、ジタンの怒鳴り声に重なるようにカトブレパスが大きく嘶いた。瞬間、その血色の目がぎらりと輝きを増し、辺りを怪しげな光が包む。
 すると、四分の三ほどの隊員が糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
「アレス少尉、今のは何ですか!?」
「催眠攻撃だ。ダメージは無い」
 ニーダには効かなかったようだ。他にも全く効いていない者がいる。中には効果が薄かったのか、多少フラフラしながらも必死に立ち上がろうとする者もいた。ジタンには全く効いていない。効くはずがないと、本人も知っている様子で微動だにせずに腕を組んでいる。
「どうした、戦わないのか?」
 なおも言うジタンは、やはり自分が動く気はないようだ。
「隊長は戦ってくださらないんですか!?」
 起きている者の中で一番カトブレパスに近い隊員が震える声で叫んだ。程良く膝の力が抜けて腰も落ちているところを見ると多少の武術の心得があるらしいが、武器を握る手には無駄に力が入っていて肩も緊張しすぎている。たしか、彼は民間からの志願兵だったはずだ。
「みんなの実力が見たい」
 ジタンの言葉に最初に反応したのはニーダだった。彼は何かに気付いたように目を見開いた次の瞬間、顔を引き締めると勢いよく飛び出した。彼の得物はショートソード。身軽な足運びで倒れている隊員を避けながら走り寄ると、迷いのない太刀筋でカトブレパスの脳天めがけて得物を振り下ろす。
 しかし、辺りに響いたのはカトブレパス断末魔ではなく、金属が硬い大地を噛む音。宙に舞ったのは魔物の血ではなく、この大陸特有の乾いた芝草だった。
 カトブレパスは少し首を横に振ることでニーダの攻撃を避けていた。そして、すかさず反動をつけた首でニーダを強か払おうとした。
「スティアラー軍曹!」
 カトブレパスの動きを一早く読んだ隊員が、その巨体からは想像もつかないほどの素早さで間に割り込むと、カトブレパスの角を交差させた腕で受け止めた。
 二人は重なり合うように地面に叩きつけられる。角を受け止めた小手はひしゃげていたが、すぐに立ち上がったところを見ると二人とも無事のようだ。
 カトブレパスは二人には目もくれず、ゆっくりと一歩踏み出す。
「く、来るな!」
 先ほどの志願兵が大槌を構えて叫ぶが、武術の心得があろうとも数日前まではただの民間人だった彼は未知の魔物に怖気づいてしまい、構えはへっぴり腰に変わって声は上擦って震えている。
 カトブレパスは嘲笑うように大きく鼻息を吐く。
 その音に、それまでじっと様子を見守っていたジタンは飛び出した。
「アレス隊長!?」
 ジタンは駆け寄る間に両腰の得物を音も無く引き抜く。左手には何の装飾もない鈍色の短刀を。右手には、左と対照的に、黄金に輝く装飾が施された短刀を。
 カトブレパスは屈みこむように肩口に首を持っていくと、ニーダの時とは比べ物にならないほどの勢いで、志願兵へ首を振り払った。
 金縛りにあったかのように動けない隊員にカトブレパスの角が突き刺さると思われた瞬間、ジタンが体当たりをして隊員を吹き飛ばす。志願兵は受け身もとれずに転がったが、ジタンは空中で一回転して手を付くこともせずに危なげ無く着地した。
 そして、次の瞬間にはカトブレパスへと駆け寄っていた。
 意識のある隊員は誰も目が離せなかった。瞬きすらできなかった。
 ジタンの腕が、左、右、と一度ずつ振られた。それだけだった。
 次の瞬間には、大量の血飛沫とともにカトブレパスの首がどうと大きな音を立てて地に落ちた。
「これで一食分くらいは稼げたかな?」
 素早い身のこなしで飛び退り、血の一滴すら掛かっていない姿で月光を弾く二振りの刃を音も無く鞘に収め、ジタンはにかりと笑った。
 恐怖の寒気か、歓喜の震えか。電撃のように強烈な痺れが背骨を奔り、意識のある者すら、身動ぎ一つできなかった。





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2008.01.16
last-alteration 2011.01.31