「トロールに食われたと思った……」
 ブランクの用意した水を一気に飲み干すと、ジタンは最初にそう言った。
 怖い夢を見た子供が母親に不安を吐き出すような、どことなく幼い口調に思わずブランクは吹き出しそうになったが、なんとか堪えて聞き返す。しかし、上体を起こして枕をクッション代わりにベッドに座っている姿と、まだ頭がぼんやりしているのか重そうな瞼を押し上げようとする姿がジタンの子供時代と重なり、必死の努力もむなしく少々どもってしまった。
「ト、トロール?」
「気を失う寸前に、緑色の人影が近づいてくるのが見えたんだ」
 ジタンの顔には疑問の色が浮かんでいる。確かに、瀕死のところでトロールに出会ったのなら死を覚悟するのが普通だろう。ただし、出会ったのがトロールだったのなら、だ。
「そりゃ、トロールじゃねぇよ」
「知ってるのか?」
「会ったからな。そいつはニンフだ。マーカスが精霊だの何だの言っていたな」
 ニンフも人の形をした緑色の生物だ。ごつい巨漢然としたトロールと少女のような容貌のニンフでは似ても似つかないように思うが、朦朧とする意識の中で見たら見間違わないとも限らないだろう。
「ああ、あいつらか」
「宝石をくれた恩返しだとよ」
 他にも何たらかんたらと言っていたような覚えがあったが、何の事やらわからなかったので、ブランクは宝石の礼の事だけを伝えた。
「そうか……」
 溜息と大差ない呟きを零すと、やっとジタンは安堵の表情を浮かべた。ここにきて、やっと自分が目覚めたことにも実感が湧いてきたようだ。
「――助かったんだな」
「すぐには本調子にはならねぇだろ。なんせ、四ヶ月もグースカ寝てたんだからな」
「四ヶ月だって!?」
「正確には、……三ヶ月と二十日だな」
「オレ、そんなに眠ってたのか……」
「力もまともに出ないだろ。でも、命は助かったんだ。ゆっくり休んどけ」
 そう言うと、ブランクは視線を手元に落とした。
 ブランクはジタンのための水と一緒にレターセットを持ってくると、近くの小さなテーブルを引き寄せて手紙を書き始めていた。ジタンが寝込んでいた正確な日数を数える時だけ手を止めて少し視線を宙に漂わせたが、それ以外の会話は手紙を書きながらしている。
 ただの黒インクでなく鮮やかな青色をしたインクで書いているのを見て、ジタンはその手紙がタンタラス団に宛てた極秘の手紙だと判った。その内容が、自分の目覚めの事だということも察しが付いた。
 無言でカリカリとペンを滑らせ始めたブランクから視線をはがすと、ジタンはちらりと横を見る。
 すぐ側にはジタンが横たわっているベッドと同じようなベッドがもう一つ置いてあり、そこにはクジャが静かに眠っていた。青白い顔をした彼は、とても穏やかな表情を浮かべている。
「クジャはどうなんだ?」
「ずっとこうだ。お前はアップダウンが激しかったが、こいつはずっと低いところで安定している」
「そうか。――みんなは?」
 ジタンは『みんな』という抽象的な表現しかしなかったが、それだけでブランクは誰を指しているのか判る。
「ビビは黒魔道士の村だ。あんまり体調が良くないらしくて、エーコが村とマダイン・サリを往復して看病している。でも、この頃は村に居ついているらしい。ダガーは即位式を済まして女王になってからずっと政務に追われているし、騎士のおっさんはダガーにビッタリひっ付いている。フライヤはブルメシアに戻って復興作業に掛かりっきりだし、クイナはアレクサンドリア城で料理長になったらしい。サラマンダーはミコトがやっていた新生黒魔道士の研究を手伝った後、どっかに消えた」
「新生黒魔道士?」
「イーファの樹付近に墜落していたインビンシブルに積まれていた予備のジェノム体をベースに創られた、新しい黒魔道士だ」
「新しい、黒魔道士か……」
「ビビがミコトに頼んだらしい。寿命はヒト並だし、生殖機能もある。――黒魔道士たちの希望が、六人生まれたんだ」
「そうか……」
 ジタンはそれだけ呟くと、嬉しそうに微笑んだ。
「ところで、ここどこだ?」
 クジャの隠れ家はジタンも来たことがある場所だが、立ち入った所はほんの一部でしかなく、ジタンは今自分がどこにいるのか見当もつかなかった。でも何となく豪奢な装飾に見覚えがある気がしたのでブランクに聞いてみたのだが、ジタンの質問にブランクはガクリと顔を俯けた。
「今更それかよ……」
 そして呆れたような表情のまま口を開いた。が、
≪ここはデザート・エンプレスだよ≫
 ジタンの質問に答えた声は、ブランクのものではなかった。
 さらに言えば、声ですらなかった。
「なんだ、今の!?」
「クジャ!?」
 頭の中に直接クジャの声が響く。どうやら、ジタンだけでなくブランクにも聞こえているらしい。
≪僕がミコトに、僕らをここへ運ぶように言ったのさ≫
「お前が?」
≪ここは人が滅多に寄り付かないし、テラの情報が沢山あるからね。ここにミコトが来れば……君は助かると思ったんだよ≫
 ジタンはベッドから降り立とうとしたが、長い眠りのせいで萎えた足は体重を支えきれず、床に無様にも崩れ落ちる。それでも這うようにしてクジャの枕元へ近づいた。
 ジタンもブランクも、クジャの言葉に嫌な予感を覚える。
「『君は』って……お前は?」
≪ジタン、君も……わかっている……だろう?≫
 クジャが言い終わらないうちに、生命維持装置の警報が鳴り響き始めた。
「お、おい、ちょっと待ってくれよ!」
 ブランクははっとして慌てて立ち上がると、計器の操作盤の方へと駆け寄ろうとした。
 すると彼を押しとどめるように、
≪もういいんだ。……もう充分さ≫
「何言ってるんだ、クジャ!!」
≪ミコトに、……自分を責めないように……言っておいて……くれないか≫
「クジャ!」
 美しく飾り立てられた部屋の壁に警報とジタンの声が反響する中、クジャの弱々しい声が不思議なほどはっきりと頭の中に響く。
 クジャの声だけ別の世界から降ってきているような奇妙な感覚に、ブランクも足を止めて立ちすくんだままクジャの穏やかな顔を見つめていた。
≪君のおかげで、……新しい黒魔道士の……誕生を、……僕が一度……粉々に砕いてしまった……彼らの……希望が……生まれた事を……知ることが……できたから、……と≫
「――クジャ」
≪ジタン、……君にも……礼を……い……う……よ……≫
 クジャの声が途切れると、何事も無かったように呆気なく警報が鳴り止んだ。
 鼓膜を打つ音も、頭に響く声も、それ以上は聞こえてこなかった。





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2007.11.10
last-alteration 2011.08.26