声が聞こえた。
 最初にジタンの耳が捉えた音は、音というのもおこがましいほど不確かなものだった。それが、だんだんと大きく、そしてはっきりと聞こえてくる。
「……ん、……ンさん、……ジタンさん!」
「――マー、カ、ス?」
 口とともにゆっくりと開いたジタンの蒼い眼が写したものは、安堵の表情を満面に浮かべているマーカスの顔だった。
「良かった……。兄キ、起きてください! ジタンさんが目を覚ましたっスよ!」
「なに!?」
 マーカスの呼びかけに、それまでソファーで寝ていたはずのブランクが飛び起きる。ずれて鼻の頭まで落ちてきたベルトを押し上げ、自分に掛けていた毛布に足を取られ、冷静さと格好よさを売りにしている彼には似合わない慌ただしさでジタンの枕元へ駆け寄った。
「兄キ、俺、これから黒魔道士の村に行ってくるっス!」
 マーカスは転げるように地下宮殿を飛び出した。
 崖を穿っただけの粗末な出入り口に立って腰袋から取り出したギサールの野菜に火を点ければ、途端に独特のにおいが辺りに漂い始めた。
「クェェー!」
 ギサールの野菜が半本燃え尽きる前に、チョコボの鳴き声がマーカスの耳に届く。
「今日は、ずいぶん早いっスね」
 普段はギサールの野菜を丸々一本焼いてからでないとチョコボは来ない。しかも、今回のようにチョコボが最近来たことがある証拠となる足跡の無い所では、ときには三、四本焼かなければ来てくれないときもある。だが、今日はずいぶん近くに居たようだ。
 マーカスは旋毛風と共に現れたチョコボに恐る恐る乗った。
 チョコと名付けられた白金色の羽毛を持つチョコボはジタンたちには懐いているが、どうも他の人間にすぐは懐かないようで、黒魔道士の村を出たときなどは急に暴れだし、チョコに乗ってジタンの捜索をしようとしたミコトとブランクとマーカスを振り落としてしまった。
 だが今日はずいぶん機嫌が良いようで、マーカスを振り落とすこともなく走り出した。
「今日はついてるっス!」
 ジタンが目を覚ましたことと重なるように、いい事が何度もあった。チョコがすぐに駆けつけた事やマーカスを大人しく乗せてくれた事も勿論だが、先日会ったときに負っていた羽の傷が治っていてチョコが空を飛行できるようになっていたし――といっても、チョコボ独特の離陸方法にマーカスは大量の冷や汗をかく羽目になってしまったのだが――、このところずっと吹いていた西風がピタリと止んでいてチョコが楽に山を越えることができた。
 マーカスは陸路を覚悟していたのだが、空を飛べたおかげで予想していたよりも何時間も短い時間で黒魔道士の村に着くことができたのだった。





 七月に入り、乾いた森の奥にも青々とした木々が目立つようになってきた。
 外側の大陸には気候に合わせた植物が根を張っているので、当然のことながら、霧の大陸では見ることができない様々な植物が自生している。黒魔道士の村を守るように広がるマグダレンの森は、そういう植物の宝庫だった。花が芽吹く春だろうと、動植物が活気に満ち溢れる夏だろうと、朽葉のようにくすんだ色しか呈さない葉々。花は白いものがほとんどで、深い森を抜けるのには少々味気なさが否めない。
 しかし、黒魔道士の村に近付くと話は別である。
 その境界は突然現れる。この独特な結界を維持させている288号という黒魔道士が言うには、隠さなくなっただけで術自体は解いていない結界のせいでそう見えるだけらしい。講釈はともかく、くっきりと境界線を引けるくらいに突如として緑に萌える森が現れるのだ。
 森の最奥にある水源によって潤った土地には青々とした木々が溢れている。花も色とりどりに咲き誇っている。その中で、多くの住人が生活を送っているのだ。
 マーカスはどうすれば村の住人に気付かれずにミコトを探し出して秘密の報告ができるかと気を揉んでいた。急増していた住人全員の目を盗んで行動することは無理だろうと諦めていたのだが、彼が足を踏み入れたとき、村は異様なほどにひっそりとしていた。
 いつも村の入口に落ちる木漏れ日を浴びてくつろいでいる黒魔道士もいない。小道でお喋りに花を咲かす黒魔道士も、散歩をする黒魔道士も、もちろんジェノムも一人もいない。
「何かあったんスかね。……まさか!?」
 マーカスは慌ててチョコから飛び降りると、チョコボ舎の方へと駆けだした。
 チョコボ舎の奥には、村で一番大きな家がある。小さな黒魔道士が一人静かに暮らすだけだからと必要最低限の大きさにするつもりだったのだが、家を建てている途中で突然七人暮らしに変わったせいで、その家は真上から見ると団子を二つくっ付けたような、横から見ると二人の黒魔道士が背中合わせに笑っているような形となっている。その片方の黒魔道士の顔は予定より大きく引伸ばされたために、歪んだ、とても滑稽な笑みを浮かべている。
 その笑顔が見え始める手前、チョコボ舎の横に人だかりができていた。そこにいる全員が件の家の方を向いていて、村を訪れたマーカスに気付いた者はいなかった。
 募るばかりの不安に、誰かを捕まえて話を聞こうかと思い始めたとき、人垣を掻き分けるようにしてミコトが現れた。俯いている彼女はマーカスに気付いていないようだ。
 ふらついているわけではないが力のない足取りをしたミコトを眼で追っていた黒魔道士が、状況が分からずに突っ立っているマーカスに気付いた。
「マーカスさん……」
 ミコトは、その声にはっと顔を上げる。
「ミコトさん?」
 真っ直ぐマーカスへ向けられた顔は、ミコトのものと思えないくらいに表情に溢れていた。
 ――悲しい。
 ――苦しい。
 ――悔しい。
 ミコトは再び俯くと、マーカスの腕を掴んでずんずんと村の反対側へ歩いて行く。マーカスは黙ってそれに合わせて歩いていた。
 小道をずっと行った先には墓地がある。そこには手頃な太さの木で作った十字架に故人が生前身につけていたとんがり帽子を括りつけただけの簡素な墓が並んでいる。わざわざ数えたことはないが、見る限り、墓標の数はつい最近村を訪れたときと変わっていなかった。
 その横を過ぎて木立の中に入っていく。新たな家は墓地と反対側に建てられていったので、墓地を通り過ぎると手付かずの林しかない。そこに入ってすぐ、まだ木々の青々とした葉の合間から村が見える所まで来て、ミコトはやっと歩くのを止めた。
 しかし、何も言おうとしない。顔を上げようともしない。マーカスの腕を放そうともしない。
「……ミコトさん?」
 マーカスが沈黙に耐えきれずに名前を呼ぶと、弾かれたように顔を上げる。
 彼女らしくなかった。その仕草も、表情も、
「ビビが、止まってしまった。――死んでしまったの」
 声色も。
 震えた声で、囁くような小さな声で、マーカスに伝える。
 震えた手で、マーカスにしがみつく。
 そうされて初めて、マーカスは彼女の手がとても小さいことに気が付いた。それまでは、頼りになる器用な手だとしか思っていなかったのに。
「私は……ビビを救えなかったの。延命しようと頑張ったのだけれど……救えなかった」
 ミコトが苦しそうな声でそれだけを吐き出したとき、マーカスはゆっくりと彼女を抱き寄せた。
 彼女の肩がとても細い事にも、今になって改めて気がついた。抱き寄せた身体は、ジタンやクジャの治療にあたっているときのような揺るぎなさが全く無く、あまりにも儚く感じられた。
「ミコトさん、泣くっス。――苦しいっスよね。苦しいときは、泣いていいんスよ」
「……私は、やり方を、知らないわ」
 今はマーカスの肩口に収まっていて見えないが、数秒前まで見えていた彼女の表情は、眉根は寄って、口は歪み、目元は赤くなっていたのに、それでもミコトは泣けないと言う。
「力を抜くっス。目を閉じて、口からゆっくり大きく息を吐いて、頭に溢れてきたことだけを思うっス」
 マーカスは、俯く必要もなく口元にある耳に優しく話し掛ける。背中に回した手であやすようにゆっくりとしたリズムを刻む。女手一つでマーカスを育ててくれた母の仕草を思い出し、ゆっくりと、優しく。
 しばらくすると、嗚咽こそ聞こえなかったが、マーカスの鎖骨近くの布がじんわりと湿ってきた。
「ミコトさん、ジタンさんが目を覚ましたっス」
 ぴくりと腕の中でミコトが身じろいだ。
(ミコトさん、伝わるっスか……)
 あなたは一つの命を救えたのだと。指の間をすり抜けていってしまった命もあるけれど、失われた命が確かに息衝いていたと記憶に深く刻み込める命の未来を、あなたは確かに繋いだのだと。
 この少女にわかるだろうか。
 彼女は泣き方すら知らなかったのだ。まだ、笑い方すら知らないのだ。





 伝わるだろうか、このあまりにも不器用な少女に――。





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2007.11.10
last-alteration 2011.08.26