サラマンダーはエバーラングを出てダゲレオで数日を過ごすと、道と呼ぶのもおこがましい道を辿ってルフェインの里を訪れた。それはエバーラングの族長でもある祖母に教えてもらった道で、ジタンたちと旅をしていたときには見向きもしなかった険しいものだった。
 ルフェインの里は、風脈の祠を挟んでブロウバレーの反対側に位置する集落だ。サラマンダーたちは旅の途中で風脈の祠を訪れたときに近くの空域を通ったが、祠から吹く暴風の影響で飛空艇が揺れに揺れたため地上をじっくり観察できるような状況ではなかった。それに、たとえ道を通るようなことがあったとしてもエバーラングの里と同じように集落自体が巧妙にカムフラージュされているため、すぐ傍まで近寄らない限りただの岩の群れにしか見えない集落に気付くことはなかっただろう。
 途中で遭遇した里の者に案内されて里に入ったサラマンダーは辺りを見渡す。
 外観を見る限りではただの岩にしか見えない物は、案内人によれば民家だという。それを聞いてサラマンダーは粗末で過ごし辛そうだと思っていたが、実際案内されて中に入ると、岩に包まれた家は風を通せば涼しく空気を閉じ込めれば温かくて快適なのだと知れる。しかも岩の壁は加工が容易いうえに頑健で、多少魔物が突撃してきてもびくともしないと案内人が教えてくれた。エバーラングの民家の方がよっぽど粗末だった。
 最終的に案内されたのはルフェイン族長の屋敷で、サラマンダーはそこでの逗留を許された。どうやら、ダゲレオに滞在している間に祖母が根回しをしてくれたらしい。
 族長の屋敷は里の中で一番大きく広いく、美しい文様が刻まれた内壁や所々に配されたニッチの中に据えられた石像、壁やインテリアに張られた鮮やかな織物、棚に飾られた金に輝く杯、どれも族長の屋敷と呼ぶに相応しい物ばかりだった。
 唯一、屋敷に住むエルデという若い男だけが、そぐわないように思えた。けれど、この威厳の代わりに軽い性格が滲み出ているような男が族長というのだから驚きだ。
 さらに驚きなのは、ルフェイン族の容姿だ。ネズミ族そのもの。いや、ネズミ族と違って体毛が純白ではある。けれど里に入ってルフェイン族を見たときの衝撃は大きかった。
 しかも、現在ルフェインの下にはグルグ火山に居を構えていたはずのモグラが滞在しているらしい。グルグ火山を訪れたときに謎を残したモグラの消息がここで分かるとは想像だにしていなかったのでサラマンダーは彼らを見てみたかったのだが、モグラたちはルフェイン族のために里から出てとある作業に取り掛かっているため対面は不可能だとエルデが教えてくれた。
 モグラたちとの兼ね合いもあるだろうから、たとえそう見えなくてもエルデも忙しい身なのだろうが、彼のサラマンダーを持て成そうとする気合に押され、サラマンダーは好意に甘えて族長宅で『テラ記』を見ていた。
 ただし、見ているだけだ。『テラ記』は霧の大陸における古代文字で書かれているため、サラマンダーには読むことができない。
「この言葉を現在の語法にまで確立させたのはエバーラング族だって聞いた覚えがある気がするんだけどなあ。知らないのか?」
「俺は霧の大陸の生まれで、エバーラングを訪れたのは数日前が初めてだ」
「それなら読めないだろう。俺が直々に音読してやろうか?」
「いや、いい」
 所々にある挿し絵を頼りに論じている物を知ることくらいしかできないが、別に急いでいる訳ではない。それに、もう一度ダゲレオに行けば辞書が見つかるかもしれないし、気は進まないがエバーラングに戻って誰かに翻訳を頼むこともできる。
 何にせよ、今まで一族が大切に護ってきたドクトル・コーラルの手記を軽々しく誰かに読ませて良いとも思えなかった。
 古びた紙を破ってしまわないようにページを繰っていると、少しの時間だけ奥の部屋に消えていたエルデが分厚く古ぼけた本を持ってくる。
「預かり物だからやることはできないが、これは霧の大陸の書物だから滞在している間に読んでみるか?」
 渡された本の背表紙は擦り切れていたが、表紙には薄らと『ク……ラ宗国…書』と大陸文字で書かれていた。数か所に辛うじて張り付いている金箔から、作られた当初はずいぶんと豪華な装丁だったのだろうと察せられる。
 ずっしりと重い本をひっくり返して見ると、裏表紙の中央には存在感のある印象的な大樹が描かれていた。
「これは……クレイラ?」
「そうらしいな。俺たちにとって『クレイラ』というと人名だが、霧の大陸では国名らしい」
 表紙を開けば、最初のページに装飾文字で『クレイラ宗国史書 クレイラ2世著』と書かれている。この著者が、エルデが言うクレイラという人物だろうか。
 しかし訊いてみると、エルデが言う『クレイラ』はこの史書が書かれた二百年も前に生きた人物だという。そのクレイラは人格者として慕われていたそうで、ドクトル・コーラルとともに旅に出て霧の大陸に渡り、クレイラが霧の大陸に永住を決心したためにルフェイン族の一部の流出が起こって、それが現在ブルメシアンやクレイランとして知られるネズミ族の祖先だという。移住したルフェイン族の子孫たちが統一王国崩壊時に功績をあげ、報奨として与えられたヴブ砂漠とデインズホース盆地を領土としてクレイラ宗国を建てたのだ。
 掻い摘んで読んでみると、今サラマンダーの手の中にある『クレイラ宗国史書』には宗国が建国するまでの統一崩壊時の歴史と初代大司祭の治世までが記されているとわかった。
「これは、どうしてここにあるんだ?」
「キルデアという旅人の女が置いて行った。お前の言うクレイラという国で神官をしていたそうだ」
 数ヶ月前にルフェインの里を訪れたキルデアはダゲレオに向かうつもりだったらしく、水で濡らしたり盗まれたりするのは困るからと史書を始めとする貴重品の保管をエルデに頼んだそうだ。
「そういえば、彼女はここの文字が読めていたぞ」
 なんでもキルデアによると、その文字は古い時代にネズミ族で使われていた文字だから現代のネズミ族でもある程度の学を修めた者には読めるらしい。
(ネズミ族……)
 そのときサラマンダーの脳裏には、一人のブルメシアンの女性が浮かんでいた。
 大して長い付き合いがあるわけではないが、サラマンダーは彼女が年齢に似合わぬ経験と知識を持っていることを知っていた。それに、旅をともにした彼女にならばテラに関するこの本を読ませても問題はないだろう。
「今後の進路が決まったか?」
 何も考えていないような表情で、サラマンダーの心を読んだようにエルデが笑う。
「ま、どちらにしろ十日くらいはここにいてくれよ。俺たちにも色々と事情があってな、たとえ一人でも客人がいてくれると張り合いがあって楽しいもんなんだ」
 威厳の欠片もないエルデの顔を悟りのような翳りが過る。その翳りが、彼を族長の座に押し上げたのかもしれない。
 なぜか、サラマンダーの瞳の奥で、エルデの笑顔と祖母の泣き顔が静かに重なった。






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2010.03.22