コトコトとシチューが煮込まれる長閑な音を後ろに聞きながら、サラマンダーは釈然としないままに老婆と膝を突き合わせていた。
決して機嫌がいいとは言えないサラマンダーとは対照的に、先ほど顔を洗ってきた老婆は涙と共に色々なものを落としてきたようで、スッキリした顔に穏やかな笑みを浮かべている。
「こんなに立派になって……。時が経つのは真に速いものだ」
世話役らしき少年が手慣れた様子で老婆とサラマンダーに配膳をし終えて下がると、老婆は感慨深げに口を開いた。
「……本当に、お前は父親に似ておる」
その言葉を皮切りに始めた話によると、老婆はエバーラング諸島を中心に生きる一族の族長で、サラマンダーにとっては母方、ミンウにとっては父方の祖母だという。
「して、名は何という?」
会ったばかりのサラマンダーにいきなり抱き付いたうえ知らない名前――おそらく、それがサラマンダーの本名なのだ――で呼んでいた者にそう訊かれるのは複雑だ。とはいっても、この問は昔からよく訊かれてきたものだった。そしてサラマンダーは必ずこう返した。
――好きに呼べ、と。
今回もその一言で済む話だ。親が付けた名前という物に執着も興味も無いが、一族の者たちがその名で慣れているというのなら無理に変える必要もない。そもそも、この地を再び訪れて彼らと顔を合わすとは限らないのだ。好きに呼ばせればいい。
しかし、口から零れ出たのは、
「サラマンダーと――そう、呼ばれている」
サラマンダー、サラマンダー、と族長が何回か口の中で彼の名を転がす間、サラマンダーは不思議な気持ちを抱えていた。
名前はサラマンダーだと、そう言い切れた自分が不快ではなかったのだ。
族長の世間話に少し付き合ってからサラマンダーが『コーラル』に興味があることを話すと、彼女はゆっくりと食事を進めながら長い話を紡いでいく。
「世界には不思議な力を持った四つの祠がある。水脈の祠・火脈の祠・地脈の祠・風脈の祠――我々が『四大の祠』と呼ぶそれらには『鏡』という道具と荒神が在り、それに依る信仰が生まれた。その信仰を生んだのは近隣に住み付いた民族だった」
その民族は、信仰する祠の特異性の影響を受けて特化していき、いつしか人間とも亜人種とも一線を画す異形の者となったという。それが、エバーラング・モグラ・ドワーフ・ルフェインと呼ばれる民族。
エバーラングは水の荒神と『水面の鏡』を、モグラは火の荒神と『猛火の鏡』を、ドワーフは土の荒神と『大地の鏡』を、ルフェインは風の荒神と『突風の鏡』を祀り、祠の近くに根付いて発展を続けていた。
しかし、祠近くの環境はあまりにも過酷だった。水脈の祠の周りは渦巻く海流のために船すら渡せず、火脈の祠の周りは灼熱のために汗すら乾き、地脈の祠の周りは絶えない地震のために家すら長く建たず、風脈の祠の周りは暴風のために一所に立っていることすらできない。
そのため、エバーラングは近くの島から遠目に祠を眺めるに止まり、モグラは灼熱と雪国の極寒から逃げるように土中へ潜り、ドワーフは全く別の土地を聖域と崇めるようになり、ルフェインは風の及ばない土地へ居を移した。
「土地を離れるとともに心も離れ、信仰の衰退を招いた」
そんな中で生を受けたドクトル・コーラルは、かつての信仰の正体、つまり祠について調べ始めたらしい。
それは、テラの核心に触れることに繋がった。
これはジタンたちと旅をしていたサラマンダーだから知ることだが、鏡が祠に納められている間はテラとガイアの道が開いている。そこにテラを探る者が現れたのだから、ガーランドにとっては邪魔で仕方なかったことだろう。
「そしてある日、祠から鏡が消え、荒神も姿を消したのだ」
ガーランドにとって、ドクトル・コーラルを殺すことは容易かったはずだ。しかし、また興味を持った者が現れる可能性もあり、それらを一々摘み取っていては切が無い。だからイプセンの古城に鏡を納めてテラにエネルギーを送る装置とし、守護者としてダハーカを据えたのだろう。
「それからは本格的に信仰の衰退が始まり、今も深い信仰心を抱いているのはルフェインの民くらいだ」
しかし、それでもドクトル・コーラルは研究の手を休めなかったという。各地に飛び、他の祠に根付いていた三つの種族を中心に、テラに関する情報を集め続けたらしい。
「もし時間があるのなら、これを読むといい」
そう言って差し出されたのは『テラ記』という分厚い手記だった。
「それはドクトル・コーラルのテラに関する研究書だよ。代々コーラルの血筋が保管してきた、この世に唯一つの本だ。お前の両親は紛失の恐れがあると言って、これを私に預けたのだ。コーラルの家宝を取り戻したらミンウに継がせるつもりだったが、本来の持ち主はお前なのだから読む気があるなら持っていきなさい」
ぱらぱらとページを繰ってみると、そこには所狭しと細かい文字が連ねられていた。
「……もらっていこう」
長い時を経たせいで所々に染みや焼け焦げができていて読みにくいが、この古ぼけたページの奥に謎を追い続けた男の知識が広がっていると思うと内容が気になった。
「ところで『コーラルの家宝』とは、これのことか?」
サラマンダーは自分の耳を指差した。そこには大きな輪っか状のピアスがぶら下がっている。
「そう、それだ。その耳飾りはドクトル・コーラルの遺品と言われていて、それと『テラ記』はコーラル家の者たちが代々受け継いでいるのだよ」
ミンウは、この耳飾りを手に入れるために海を渡り性別を偽って、大衆に紛れていたと言っていた。
いや、それだけではない。彼女は風脈の祠と、その近くにいるはずの民族に興味があると零していた。今ならそれがルフェインの民を指しているのだと分かる。
「知りたがりもコーラルの血か?」
「世話焼きもコーラルの血だ。ミンウはお前をこの地へ導き、ドクトル・コーラルは街まで造った」
その他にも、研究の片手間に人や物を運んでいたという。確かに世話焼きかもしれない。
そういうサラマンダーすら、ミンウをブロウバレー探索に同行させるようにジタンに口添えをしてしまったのだから他人の事は言えない。
「興味があれば、ここから南にある島にも行くといい。南洋群島の半ばに彼の名が付けられた書物の町がある」
「書物の町……ダゲレオか?」
「おや、知っているのかい。知っているなら話は早い。その町のどこかに彼について書かれた本があるはずだから、それを読めばさらにドクトル・コーラルについて知れることだろう」
族長の声が遠くなった気がした。
サラマンダーの視線は族長へ向いているが、意識は左手の甲に集中していた。そこにある『偉大なるD・コーラルの十一代目の息子よ』と彫られた刺青に。
(D・コーラル……ダゲレオ・コーラル、か)
まるで、全ての事柄がサラマンダーを待ち構えているようだ。まったく、気味が悪い。
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