忘れ去られた大陸を離れて半日と少し。
 大した距離を移動してもいないのに、昨日まで見ていた景色と目の前に広がる景色とは両極だった。見渡す限りを美しく染める赤々とした夕陽すら、砂混じりの乾燥した空気と潤った美しい空気とでは全く違う。
 潮の匂いに満ちた空気を深く静かに吸い込んで、サラマンダーはエバーラング本島から渡してもらった舟を降りた。足を置いたそこは、真上に向かって崖岸を抉り葛折に伸びる階段の一段目だ。
 この島は周辺の住民から『親島』と呼ばれ、昔からエバーラング諸島に住み付いている一族の中でも高位の者たちが住んでいる島らしい。
 そう、ミンウが言っていた。








 モルボル襲撃後、怪我人の手当てやテント張りなどの雑事にある程度の収拾がついた頃、眼前の騒動に手を貸すでもなく傍観していたサラマンダーはミンウ――思えば、その時点ではまだ名前すら知らなかった――に話があるとだけ告げられ、連れ立って人気のない岩場に向かった。
 そのときサラマンダーが文句も言わずに付いて行ったのは、挑発的なミンウの態度に『売られた喧嘩は買う』精神が疼いたのか、それとも向けられた視線の真摯な色に押されたのか。とにかく、サラマンダーはミンウに導かれるままに岩の間の薄暗い場所に立ち入った。
 陽光の当たる場所と比べると少し冷たい空気が、二人の間を擦り抜けた。
「サラマンダー、といったか?」
 ミンウは静かに振り返ると、抑えた声で訊ねた。その顔色は、日陰にいることを差し引いても悪く見えた。
「だったらなんだ?」
「私は第一小隊第四分隊所属二等兵ミンウ・ヒルディフェン。――突然で申し訳ないが、あなたの名前を教えてほしい」
「たった今、お前が言ったじゃねぇか」
「そうではなく、姓を教えてほしい」
 サラマンダーは経験したことのない問に少しだけ戸惑った。
 名前を問われることは少なくなかった。ただ単に話をする上で不便だからという理由だったり、探りを入れられるときだったり、冥土の土産として教えてくれと乞われることも何回かあった。しかし、サラマンダーは明確な――もしくは正確な――答を返せた例はない。
 それは、サラマンダーが孤児だったからだ。物心ついたときには既に家族は無く、誰かの庇護を受けられなかったため、小さな手に武器を握って生き抜いてきた。幸いなことに生まれつき常人より丈夫で有能な肉体だったうえ、未熟ながらに不思議な術を使えたため気付けば『裏稼業No.1』という肩書まで手に入れてしまった。自身の本当の名すら手に入れないままで。
 しかし、姓だけは別だった。
「――コーラルだ」
 姓だけは、左手の甲から手首にかけて彫られてある『偉大なるD・コーラルの十一代目の息子よ』という刺青が語っていた。物心付いたときには色鮮やかに彫られてあった刺青は、子供心に迷子札を無理矢理掛けさせられているような不快感があって昔から防具の下に隠しているが、サラマンダーが確かに誰かの子であることを示していた。
 いつもならば忘れている複雑な感情を引きずり出された気がして、サラマンダーはただでさえ無い愛想をさらに削ぎ落とす。
 しかし、返答を聞いたミンウは目を見開いて驚きとも喜びとも困惑ともとれる表情を浮かべ、
「やっと、見つけた……」
 そう呟いた。
「『見つけた』だと?」
 賞金首になったため、知らない者に追われるのはサラマンダーにとって珍しくないことだ。しかし、薄っすらと頬を上気させて興奮した様子のミンウがそういう類の者でないことは一目瞭然だった。
「私はあなたのその両耳にある耳飾りを手に入れるために故郷を出た。それはコーラルの者が継ぐ物だから」
「なぜ、俺が持っていると知っていた?」
 そう問いながらも、サラマンダーは薄々気付いていた。
 たとえ左手の刺青を隠そうとも、サラマンダーとミンウの間には共通する特徴が多い。ずば抜けた身体能力、異様なほどに青白い肌、癖のある縮れ毛は燃えるような焔色をしていて、何より、先ほど遠目に見えた回復術は白魔法ではなくてサラマンダーが使う奥義と酷似していた。
「あなたの父君は学者で、見聞を広めるために妻と幼子を連れて大陸へと渡った。しかし、数年したら帰るという言葉に反して帰ることは無く、我々は一家が客死したと思った。そして、父君が継いでいた耳飾りを見つけるために私は旅に出たんだ」
「こんな物に、そんな大層な価値があるっていうのか?」
「それは我らの誇りだ。何より、私の誇りだ」
 そう言うとミンウは左腕の防具を外し、その下に巻かれている晒をも外した。
「私の本当の名前はミンウ・コーラル」
 青白い肌に、見覚えのある紋様が見える。
「――サラマンダー、あなたの従妹だ」
 そこには『偉大なるD・コーラルの十一代目の娘よ』という刺青が彫られていた。








 海面から繋がる急な石段を登りきって『親島』の上に到着すると、唐突に、サラマンダーは数ヶ月前の旅での一場面を思い出した。
 この近くにある水脈の祠に来るときに、『親島』に飛空艇を付けられないかという話になったことがある。その案に、操縦士のエリンは「地表に大きな凹凸が多いので着陸は不可能です」と言っていた。そのときは急を要する問題を抱えていたため気にも掛けずに忘れていたが、今になって、その事実に隠されていた真実が解った。
 開けた視界に飛び込んできたのは、不規則に並ぶ草に覆われて盛り上がった土と、盛土に開いた穴、盛土の近くから立ち昇る煙だった。そして、丁度サラマンダーが視線を向けたときに穴から人が出てきた。――そう、上空から見えた土地の凸部は、民家だったのだ。
 しかも、民家から出てきた者を始めとする視界に入る者の全てが、青白い肌に焔色の髪を持っていた。
 その内の何人かがサラマンダーに気付き、さらにその内の何人かが一瞬の間に緊迫した空気を纏って臨戦態勢を整える。――それは当然の対応だろう。少なくとも見える限りの住人全員は似たり寄ったりの朽葉色の上着を纏っているが、対するサラマンダーは機能重視の武器防具を装備していて、身体的特徴を差し引いても明らかに部外者だ。
 しかし、ある一人の島民が何かに気付いた様子で一際大きな穴に飛び込む。サラマンダーを含めた多くの者がそれに気付きながらも、緊張した空気を緩めることはなかった。
 だが、騒がしい雰囲気と共に先ほどの島民が小柄な老婆と連れ立って飛び出してくると、その空気は困惑に転じる。状況が何も分かっていないサラマンダーは困惑すらできずに緊張を保ったままだ。
 が、それも数秒と持たなかった。
「なっ――!?」
 なんと、飛び出してきた老婆が、ボロボロと大粒の涙を零しながらサラマンダーに抱き付いてきたのだ。
 サラマンダーは数年前のトレノでジタンに出し抜かれたときとは比べ物にならないほどに動揺を浮かべるが、小柄なためにサラマンダーの胸より下に顔を埋める老婆は胴に回した手を緩めようとはしない。
 その間にも、先ほど老婆を呼んだ島民が何事かを触れ回って次から次へと島民が集まってくる。
 数十秒前までは夕食前の長閑な時間だったはずなのに、瞬く間に落着かない雰囲気が島中を包む。しかもその騒動の中心は、確実に、サラマンダーに抱き付いて号泣する老婆とサラマンダー自身だ。
 サラマンダーにとって老婆を振り払うことは簡単なことだったが、皺の寄った枯れ枝のように細い腕は巻き付く力からは考えられないほどに儚く見えて、腕力に物言わせることは躊躇われた。
 一方の老婆は、困惑したサラマンダーが何もできないでいる間に感情の波が引いたのか、嗚咽を抑えながら涙塗れにしたままの顔でサラマンダーを仰ぎ見る。
 そして、知らない名前でサラマンダーを呼んだ。






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2009.11.28