簡単な事務処理を終えると、頃合いを見計らってベアトリクスは隊の詰所を出た。そして女王の私室へ向かう。
しかし、その途中で厨房から出てきたダガーと出会った。
「陛下? どうなさったのですか、このような所で?」
「ただいま、ベアトリクス。なんだかお腹が空いて仕方がなかったから、クイナと夜食のメニューについて相談していたのよ」
そう言うダガーの顔色は、ベアトリクスの予想通り見違えるほどに良くなっていた。
「おかえりなさいませ、陛下。お元気になられたようで、本当によろしゅうございました」
「ええ。いい気分転換になったみたい。ベアトリクスたちにも、ずいぶん心配を掛けてしまったわね」
ごめんなさい、と何の躊躇いもなく臣下に頭を下げる姿は、すまなそうにしていながらも活き活きとしている。
「私どもに、陛下のお元気そうな笑顔を拝見できること以上の褒美はございません」
跪いて言えば、ダガーは嬉しそうに笑う。
彼女自身が言った通り、ベアトリクスにとってその笑顔に勝る褒美は無かった。だからこそ、彼女は自分が言おうとしていることに躊躇いを覚えた。ベアトリクスの言葉は、必ず心優しい主君の笑顔を掻き消してしまうだろう。
(だが、言わなければ何も変わらない……)
自室に戻ると言ってその場を立ち去ろうとしたダガーの姿に、ベアトリクスは心を決める。
「陛下」
「なあに?」
「陛下にお話ししたい事がございますので、部屋までお供してもよろしいでしょうか?」
「もちろんよ」
いつになく真剣なベアトリクスの様子に首を傾げながらも、ダガーは笑顔で頷く。
自分が消してしまうとわかっている笑顔に、ベアトリクスの心はつきりと痛みを覚えた。
「それで、話ってなにかしら?」
私室に入りってお気に入りの椅子に腰かけると、ダガーは早々に切り出した。
ベアトリクスは彼女の前に跪いて頭を垂れると、簡潔に言った。
「将軍職を辞したく存じます」
長い沈黙が降りた。
布擦れの音すらたてない2人の間に漂うのは遠い城内の喧騒だけ。
その沈黙を破ったのは、石像のように動かないベアトリクスではなく、戸惑いの色を隠せないダガーだった。
「……理由を、聞いてもいいかしら?」
「私がしてきたことは罪深く、何事もなかったように日々を送ることを許されてはいけないのです。ですから、公式の場で陛下に我が罪を裁いていただきたく存じます」
戦争犯罪人として裁いたのなら地位剥奪は免れない。ベアトリクスの決心通り、将軍職を退くことになるだろう。
「……現在、牢屋は崩壊していて投獄できないことは分かっているのでしょう? おそらく国外追放となるでしょう。……その後、どうするつもりなのですか?」
「ブルメシアの地で罪を償おうと思っております」
「国の罪を全て背負わせて、あなたを生贄として捧げろと言うのね?」
返すダガーの声は震えていた。
「新しい時代へ踏み出そうとしているこの時に、アレクサンドリアにとって過去の罪は重い枷でしかなく、ブルメシアにとって我が国への怨恨はしがらみでしかありません。二国の仲を取り持とうとしてくださるリンドブルム大公のことを考えましても、私が彼の国に赴き罪を償うことが最善かと」
どんな形であれブルメシア人のアレクサンドリアに対する恨みが晴れるのならば、友好関係はより良いものになるだろうし、二大国のいがみ合いが無くなれば霧の大陸の情勢も良くなるだろう。それが、たった一人の女の犠牲で実現できるのならば、これに越したことはない。
だがベアトリクスには、主君がその考えを喜んで承諾するはずがないとわかっていた。だから彼女は顔を上げないままに言葉を重ねた。
「陛下。陛下は我が国の希望でございます。どうか、陛下の、アレクサンドリアの、大陸の発展のためにも、枷でしかない私を絶ち切ってくださいませ」
ベアトリクスは、床に額が付くのではないかと思わせるほど深く頭を垂れた。
そして、再び深い沈黙が降りた。
「……わかりました」
やっと発せられた声は、沈黙にすら掻き消されてしまうほど小さいものだった。
「引き継ぎなどに関しては、明日、他の隊長たちに話して決めてもらいます」
「ありがとうございます」
ゆっくりと立ち上がったベアトリクスの目の前では、ダガーが苦痛の表情を浮かべている。
(せっかく取り戻されたのに……)
ベアトリクスは主君の笑顔を消してしまったことに後悔の念を抱きながらも、敬礼をして部屋を出て行こうとした。
だが、扉を潜るろうとする彼女をダガーの声が引き留める。
「ベアトリクス」
「なんでございましょう」
主君の悲しい顔を見たくないと思いながら、ゆっくりベアトリクスは振り返る。
すると、ダガーは胸に手を当てて目を瞑っていた。
「今日、ビビが言っていたの。――みんなの心は繋がっている、って。どんなに離れてバラバラになっていても私たちは一人じゃない、って。だから頑張れる、って」
ゆっくりと噛み締めるように言って目を開けると、ダガーはベアトリクスをまっすぐに見つめた。
「ベアトリクスは私の大事な国民よ。私の誇りだわ。どんなに離れていても、私の大好きなベアトリクスと私は繋がっている。だから私は、この国で頑張っていけるわ。――そのことを、決して忘れないで」
ベアトリクスは逃げるように部屋を飛び出した。
「ありがたきお言葉にございます」と言ったはずだが、震えが止まらず熱くなった喉では声になったかも判らなかった。
ただ、頭の中は最後に見た主君の顔でいっぱいだった。
(――陛下は、最高の褒美をくださった)
ダガーは、笑いかけてくれた。
柳眉は歪み、唇の端は震え、今にも泣き出しそうな、苦しげな笑みだったが、確かに笑いかけてくれたのだ。
ベアトリクスは、主君が堪えた涙を臣下の自分が流してはいけないと唇を噛む。しかし、鉄の味が口内に広がるばかりで嗚咽は一向に止まらなかった。
石の階段に小さな足音が響いた。
その固い音は城内を出て城の大剣の前まで辿り着いた。
木製の足場に囲まれたそこを足音が進む。
足音の正体は一人の少女。
――ダガーは一人でいた。
薄い部屋着にショールを羽織っただけの格好は、春先の夜明け前には肌寒いが、ダガーに着替える気はちっとも無い。
吐息を微かに白く色づけながら、彼女は胸壁に近寄った。
目の前に広がる街はぼんやりと青白く彩られ、目醒めには程遠く思える。だが、東の方を見遣れば夜明けは近い。
ダガーは大剣の前に改めて立つと、目を瞑り深呼吸を繰り返す。
届く気がした。
距離を越えて、時を越えて、すべての隔たりを越えて。
夜と朝の狭間、生と死の境界、闇と光が融和する時に。
私の一族に伝わる、あなたが好きだと言ってくれた歌に乗せてならば。
届く気がした。
私は一人じゃないと。
あなたは一人じゃないと。
誰も一人じゃないと。
届く気がした。
あなたが取り戻してくれた声で、
あなたが教えてくれた思いを込めて、
あなたが好きと言ってくれた笑顔で歌えば。
届く気がした。
どんな遠いところまでも、届く気がした。
夜明けとともにゆっくりと目を開ける。
そして、ダガーは薄紅色の唇を開く。
――暁にとけて歌がきこえた。
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