アレクサンドリアに朝が訪れていた。
東に聳える山脈のせいで朝日はまだまだ顔を覗かせないが、まだ規模が小さいとはいえ市場では店が開き、威勢のいい客寄せの声や値切りに力を注ぐ主婦たちの声が響いていた。いつもは国の近くにある巨大な滝で生まれた靄が国中に立ち込めるのだが、今日はいつもよりも風が強く、靄どころか、そこかしこに立ち上っているはずの朝の煮炊きを示す煙突の煙さえも吹き飛んでしまい、見ることはできなかった。
普段の幻想的な風景とは違って明瞭な姿を見せるアレクサンドリアの外れには、現在、一隻の飛空挺が停泊していた。ヒルダガルデ3号と名付けられた黒とオレンジを基調としたその機体は、風が吹き渡る新緑のアレクサンドリア高原に悠然と構え、見る者に力強い印象を与えた。
「気っ持ちいいー!!」
高原に満ち満ちた清澄な空気を胸いっぱいに吸い込むと、エーコは甲板に声を響かせた。子供独特の甲高い声は朝の陽射しのように、本当に気持ちいいほど遠くまで響いた。
「エーコ、そ、そこに居たら危ないよ」
エーコは甲板に張られてある綱を越えて、さらに縁に近い場所に立っていた。そこは、たとえ揺れの小さい高性能のヒルダガルデ3号機でも離陸時には簡単に振り落とされてしまうような危ない場所で、ビビの言うことはもっともだ。
しかし、高所恐怖症のために彼女に近寄ることもできないビビの怯えた言葉がエーコに聞いてもらえるはずもなく、
「ビビったら何処いたのよ! エーコのそばを離れちゃいけないって、何度も言ってるでしょ!」
「だって、エーコがどんどん歩いて行くから……」
「エーコに口答えする気!?」
「うっ」
常に強気なエーコに、ビビは言葉を詰まらせる。しかし、エーコの心に本気でビビを怒る気がないことはビビも承知の上だ。
「まもなく離陸いたします! 少々横風が強くなってまいりましたので、皆さん船室にお入りください!」
甲板の壁から突き出した通信管からエリンの声が響く。年若い女性であるにもかかわらず最新の飛空挺の正操縦士を務めている彼女は、エーコたちが越えてきた旅路の途中でも旅のサポートをしてくれていた人物だ。
その声は遠くの通信管からも響いているようで、彼女のはきはきした声と後ろに聞こえる他のクルーたちの駆けまわっている音が大小様々に重なってエーコたちの耳に届いた。
「さっ、ビビ、行きましょ!」
「うん」
張られた綱を潜ると、エーコはビビを置いてさっさと船室がある方へ歩いて行く。
ビビは慌てて大きなとんがり帽子を直すと歩き出し、
「わっ」
何もない所で転んだ。
「ちょっと、大丈夫?」
「う、うん」
ビビは再びとんがり帽子を被り直すと、両手を腰に当てて呆れかえっているエーコへと駆け寄った。
今度こそ彼を待っていたエーコと並んで、ビビは船室へと歩いて行く。
「それにしても、ビビったらこの頃いつにも増して転んでない?」
「そ、そうかなあ……」
甲板に洩れた子供たちの声は高原を吹き抜ける風に攫われて、数瞬の後に消えてしまった。
ビビとエーコが入った客室にはダガーとスタイナーしかおらず、ダガーに付いて来たアレクサンドリアの侍女も、乗船したときにいろいろお世話をしていたリンドブルムから来た侍女たちも、どこにも見当たらなかった。
「あら、召使いさんたちは?」
「下にある厨房でお茶の準備をしてくれているらしいの。離陸して、盆地の上空辺りまで行ったらお茶にすることになったのだけど、エーコたちも散歩はとりあえず止めにして、一緒にどうかしら?」
「もちろん、いただくわ!」
エーコは淑やかで優雅な姿のダガーと一緒にいれることに、うきうきとした気分を抑えられなかった。
ダガーは質素ながらも美しいドレスを身に纏っている。旅での軽装に見慣れていたエーコも、一度だけ彼女のドレス姿を見たことがあった。目の前に現れたダガーのあまりの美しさにありふれた褒め言葉しか出てこなかったものだが、心の底からの憧れを抱いたのは確かだ。
そのときにダガーと分け合った『お姫さまのしるし』は、今でもエーコの耳とポケットで大事に輝いている。
エーコが弾むような足取りで部屋を横切りふかふかの豪奢なソファーに座ると、ビビもエーコに続いて彼女の隣に並んで腰をおろした。そして正面に座るダガーに心配そうに尋ねる。
「おねえちゃん。今日、なんか、朝ご飯あまり食べていなかったみたいだけど、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
ダガーはにっこりと笑う。ビビもエーコも、前に見たときよりもずいぶん痩せ細ったダガーを心配していたのだが、目の前で微笑む彼女には無理に笑っているような様子はなく、二人して顔を見合せて安心したように笑った。
安心していたのは、なにもビビとエーコだけではない。
ビビとエーコから元気をもらったのか、ダガーは二人と一緒についた朝の食卓でスープとデザートだけでなくパンを一個とサラダも少し食べてくれたのだ。そのことは厨房を預かるクイナや他のコックだけでなく、給仕の者やベアトリクスやスタイナーも喜ばせた。
いま支度がされているお茶も、実を言うと、主君に元気を分けてくれた二人の子供への侍女たちからの礼として用意されている。
無事、離陸を終えてお茶が運ばれてくると、並べられる美味しそうなお菓子に目を輝かせる子供たちよりも、給仕をしている侍女たちの方が嬉しそうに見えるくらいだ。
(やはり、大公殿下は素晴らしい御方である!)
リンドブルム建国以来の名君とも謳われるシドのことだ。この事を見越して、あえて自国の使者でなく旅の仲間であるビビとエーコを使者としてアレクサンドリアまで手紙を届けさせたのだろう。
スタイナーはダガーの後ろで石像のように直立不動で控えたまま、にんまりと微笑んだ。
彼の目の前では、二人の子供が話すモーグリたちとの料理の失敗談や黒魔道士の村で暮らし始めたジェノムと黒魔道士の話、生まれたばかりのボビィ=コーウェンというチョコボがしでかした悪戯の話にクスクスと笑うダガーがいる。
(つくづく、大公殿下は素晴らしい御方である!)
スタイナーはゆっくりと深く頷いた。
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