霧の三大国家の一つ、アレクサンドリア。
 霧の大陸の北東に位置するアレクサンドリア高原に天をも貫くほどの大剣を掲げ壮大な姿を見せていたこの国は、二ヶ月ほど前にあったバハムート、インビンシブルの非情な攻撃によって大剣はおろか街や城までも破壊し尽くされてしまった。そして、瓦礫に埋もれたアレクサンドリアに追い討ちをかけるような、世界全土にわたって起こった大地震。それに次いで起こった霧の大発生。
 霧が晴れてもなお不安を拭い去ることの出来ない状況の中、アレクサンドリアは粘り強い国民の働きによってかつての姿を取り戻しつつあった。








 インビンシブルの一撃により、立ち入ることさえできなくなったアレクサンドリア城は、街と共に復興が最も優先された場所であった。
 幸いな事に崩れていたのは外壁が主で、それを退かすと城内は国民の予想以上に綺麗に残っていた。そのため城の食料貯蔵庫はすぐに開放することができた上に、巨大な調理場もすぐに使用可能となり、国の復興に携わる民の飢餓は回避できた。
 かつては豪華な様相を呈していた城の回廊も今では煤で黒ずみ、所々に開いてしまった隙間から高い音を微かに響かせて風が吹き込んでいる。
 その風に乗って、食欲をそそられる香りが廊下に漂ってきた。香りの源は数人の女の足音や車輪の音と共に、ある扉の前に辿り着いた。
 女たちの中で唯一武装している隻眼の女性は、扉の前に立つ二人の兵士に声を掛けると扉をノックする。
「陛下、夕餉を持ってまいりました」
「どうぞ」
 返って来た声は美しいものだったが、小鳥の羽ばたきにさえも掻き消されてしまいそうな程に小さな声だった。
「失礼致します」
 扉を開けると、女官はお辞儀をして静かに入室していく。
 女は最後に部屋に入ると、扉を閉め敬礼をする。視線の先には一人の女性、否、少女がいた。
 彼女は窓辺に据えられた椅子に座り、何処ともしれぬ空の彼方を見ている。窓から入る夕陽のせいで、今は彼女のシルエットしか見えない。紅い光を受けて肩にふうわりと掛けてある紗の布がぼんやりと輝きを放ち、隻眼の女は彼女が今にも消えてしまうのではないかと思った。
「陛下、お加減のほどは……」
「ええ、大丈夫よ」
 答とは裏腹に、ゆっくり振り向き答えた声は元気とは言えなかった。浮かべた微笑みには、衰運の美しさに似たものすら垣間見える。
「食欲はございますか?」
 銀色のワゴンに乗せられた食事は、フルコース一人分の量がある。
 フルコースといっても高級食材を使っているわけではなく、政務に追われている国主の元気の源となるように栄養バランスから味付けから彩りにまで気を遣い、最後の切れ端すら無駄にしないように心をこめて作られたものだ。
「どれもおいしそうだけど……ごめんなさい、全ては入りそうにないわ」
「お好きなものだけで良いので、お召し上がり下さい」
「――それでは、スープと……フルーツを少し頂こうかしら」
 女官はワゴンに広げた料理の中からスープとフルーツを選ぶと、横の小さなテーブルに移した。
 ありがとう、というと彼女はゆっくりとスープを飲み始めた。
 少しして、部屋を辞した隻眼の女と女官たちは先程の廊下を逆に辿っていた。ワゴンの重さは来た時と大した差は無い。女官たちも口には出さないが、気落ちしているようだった。
 その時、隻眼の女は廊下の端から呼び止められた。
「ベアトリクス!」
 隻眼の女――ベアトリクス――は女官たちに先に行くよう言うと、癖のある栗色の長い髪をなびかせながら後ろを振り返った。
 金属が擦れ合う騒々しい音を廊下に響き渡らせながら彼女の方へと近づいて来るのは、ベアトリクスと二人して『アレクサンドリアの双剣』と謳われている騎士だ。
「何事ですか? スタイナー」
「姫さ――ゴホン、陛下の様子は……」
「良くも悪くもお変わりなくて」
 二人は揃って嘆息する。
「取りあえず、クイナ殿とも話をした方が宜しいようですね」
 そう言うと、ベアトリクスは厨房の方へ歩いていった。








 アレクサンドリア城の料理長のクイナは、ワゴンに乗って帰ってきた料理の多さに肩を落していた。
「何で食べてくれないアルか〜? アレクサンドリア港で獲れた新鮮なタイのマリネ、黒魔道士の村で採れたトマトとバジルのスパゲッティー、トレノアーチで狩ってきたトリックスパローの肉のソテー、どれも一口も手を付けられていないアル〜!」
 クイナは悲しげな声で叫ぶと、目の前に並ぶ料理をとてつもない勢いで食べ始めた。
「このマリネ、粒胡椒がピリッと効いててとっても美味しいアル〜! このスパゲッティーも、トマトとバジルのハーモニーが何とも言えない味を醸し出しているアル〜! このトリックスパローの肉だって、赤ワインでコトコト煮込んでいるアルから口の中で溶けてしまうくらい柔らかくて、残すなんてもったいないアル〜!」
「ク、クイナ殿?」
 クイナが悶絶しているところに、スタイナーとベアトリクスが入ってきた。するとクイナは二人に物凄い形相で詰め寄る。
「なんで、なんでアルか!? どうしてダガーはワタシの料理を残すアルか!?」
「それは……」
 スタイナーもベアトリクスも声を詰まらせる。
 皆、理由は分かっている。しかし、その言葉は最早禁句となっていた。がっくりとするだけでそれ以上詰問しないところを見ると、クイナも充分に分かっているのだろう。
 暫く続いていた沈黙を破ったのはスタイナーだった。
「視察と称して陛下に外出して頂き、気分転換を図ると言うのはどうであろう」
「外出と言っても、いったい何処へ?」
「城下でも、リンドブルムでも、いっそのこと黒魔道士の村まで行っていただいてもいい。とにかく陛下に元気になって頂かなければ」
 壮大な旅からアレクサンドリアへ帰って来たその日以来、ダガーはずっと政務に就いていた。
 彼女は政務をこなしている時でも、時折手を止めて遠くを見詰める事がある。しかし、誰も咎めなかった。否、咎められなかった。
 皆、ダガーが『彼』を失ってどれほど弱っているか分かっていた。彼女がアレクサンドリアを支えているとすれば、『彼』はダガーを支えていたのだ。
 一度でも、かけがえのない、と思った支えがなくなると人は脆い。
「しかし、一国の女王が視察ともなれば色々と準備が必要です。それに、今の国情を考えると、あまり軽々しく外出するのもどうかと……」
 アレクサンドリア国民は新しく即位した女王に大きな期待を寄せている。しかし、皆が皆そうだというわけでもなかった。一部の者の中では、国が壊滅状態にまで追い込まれた時に国に居なかったのは、世界を救うためではなく自分の身を守るために何処か安全な場所に身を潜めていたのではないか、と噂される始末だ――もっとも、当時世界に安全な場所など無かった上に、幾つかの街や村では旅を続けているアレクサンドリア女王らしき人物の姿が目撃されていたので、その噂は長くは続かなかった。
 だが国外ではそうも行かず、特にブルメシア人の中でのアレクサンドリア女王は、国を滅ぼした者以外の何者でもない。国主が変わったから関係ないと言って、傷ついたブルメシア人を突き放すことなどできず、共にダガーとも旅をした仲間でありブルメシア人でもあるフライヤが懸け橋となって和解に努めているが、ブルメシア人の怒りの矛先はひたすら現アレクサンドリア女王ガーネットに注がれていた。
 そんな中で、ひょいひょいと軽い気持ちで国外に出る事など出来ない。
 三人で頭を抱え込んでいたとき、音高く厨房の扉が開かれた。
「その問題、このエーコが解決して差し上げましょう!」
 現れたのはスミレ色の髪から白く小さな角を覗かせた少女。
 突然の出来事とエーコのあまりにも堂々とした立ち姿に三人が唖然としていると、エーコの後ろから彼女と同じくらい小さな影が出て来た。
「ビビ殿!」
 スタイナーにビビと呼ばれた少年は青いローブにぶかぶかのズボン、そして小柄な体格に不釣り合いな大きなとんがり帽子を被っている。
「スタイナーのおじちゃん、……これ」
 ビビはとんがり帽子を被り直すと、腰の布袋から巻紙を取り出した。
「これは……?」
「これはねぇ、シドのおじさんからのお手紙よ」
 エーコはふんぞり返って説明する。
「今日、エーコ達がリンドブルムの街を歩いていたらオルベルタさんに会ったのよ。そしたら城に招かれて、シドのおじさんからコレをダガーに渡してくれって頭下げて頼まれたのよ!」
「確かに、これはシド大公のお手紙のようですね」
 羊皮紙に巻かれた帯にはリンドブルム公国の紋である飛竜のデザインがあしらわれていた。
「これは、私から陛下にお渡しします」
「ベアトリクス、自分もついて行くのである」
「分かりました。ビビ殿、エーコ殿、陛下にお会いになられますか?」
「うん!」
「あったり前じゃない!」
 ベアトリクスは、この小さな使徒達がダガーに元気を分け与えてくれると信じ、女王の私室へと足早に向かった。








 春の足音がそこかしこで聞こえるようになったが、北の方では未だ寒さが堪えるとのこと。旅の疲れも癒えぬままに政務に就いたガーネットも、さぞ疲れていることと思う。


 そこで、来る四月三日、ガーネットをこちらに招こうと思い、この手紙を書いた。
 南の空気に触れ、日頃の疲れを癒してはどうじゃろうか。
 そちらには優秀な臣下がいると聞く。その者たちに政務を任せても大丈夫だとは思うが、あまり女王を郷国から離すわけにもいかぬので三日間ほどの滞在と考えてよいじゃろう。
 突然の事で驚いたことと思うが、ワシの我侭に付き合ってはくれぬじゃろうか。
 たまにはゆっくり話をする事も、国を預かる者の仕事だとわしは思っている。




 こちらから飛空艇を出すので、身一つで来るつもりで結構じゃ。なお、付き添いの兵はスタイナー一人で充分じゃ。
 迎えの艇は、三日のレオの刻にそちらに着くだろう。


 それでは、また。リンドブルムで会おう。



シド・ファブール9世







 読み上げたベアトリクスは丁寧に手紙を巻くと、再び帯をかけてガーネットに渡した。
「どうやら、公書ではなく親書のようですな」
「ええ。どうやら、おじ様に心配を掛けてしまったようね」
 ダガーは少しだけ困ったように微笑んだ。
「ダガー、どうするの?」
「もちろん、お言葉に甘えさせていただくわ」
「じゃあ、リンドブルムに行くのね?」
「うん」
 おそらく、シドはダガーの状態をわかった上で手紙を遣したのだろう。その推察眼は、流石はリンドブルム大公といったところだろうか。
 微笑みながら頷いたダガーを見て、スタイナーとベアトリクスも安堵の表情を浮かべ、視線を交わして頷きあった。






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2007.10.08
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