1802年1月15日。アレクサンドリア女王の誕生日であるこの日、公式パーティーの後にアレクサンドリア城内では非公式の宴が開かれていた。このパーティーに招待された者の半分近くは、権力とは縁遠い人物だった。また、ガーネット女王にとても近しい人物でもあった。
 そして、パーティーの中心には誕生日を迎えたガーネット女王だけではなく一人の青年が居た。青年――ジタン・トライバルは二年前、ガーネット女王を含めた七人の男女と共に旅に出て、壮大な旅の最後に仲間と別れ、それきり行方知れずとなっていた者だった。

 宴が始まってから間もないうちは、旅の仲間たちはダガーと彼女に寄り添うジタンを囲んで突然の再会に皮肉混じりだったり怒り混じりだったりする安堵の声をいろいろと掛け合っていた。だが時間が経って宴もたけなわとなると場も落ち着き、それぞれ話に花を咲かせたり酒や食事に夢中になったり、子供たちの中には適当なソファやクッションを見繕って寝る者も出始めた。
 そんな頃合いだった。ダガーがふと周りを見ると、ジタンの姿がどこにも見当たらない。
 脳裏に二年前の光景が過る。砂混じりの乾いた風を裂くように迷いなく立ち去るジタン。彼に掛けられる言葉は思い浮かばず、たとえ言葉が見つかったところで飛空艇の駆動音に掻き消されてしまって届くはずもなく、ダガーはただ見送ることしかできなかった。この二年間、ダガーはジタンを信じて待つことしかできなかった。
 夕陽に赤く染まる荒野と、それとは似ても似つかない美しく飾り立てられた広間。けれど、どちらの景色にもジタンがいない。背筋を撫で上げるように不安がダガーの心を揺さぶる。ありえないと思いながらも、ジタンが帰ってきた事が夢や幻などではないと確かめたくて四方八方へ視線を奔らせる。しかし、やはりジタンの姿が見当たらない。
 飲み物を含んで乾き始めた口内を湿らせ、グラスを適当なテーブルの上に置いた。きっと少し席を外しているだけだと自分に言い聞かせながら、ダガーは再び視線を奔らせる。もしかしたら、思い出話に花を咲かせているジタンがたまたま何かの陰に入ってしまっているだけかもしれない。
 視線を彷徨わせていると、誰と話すわけでもなくただ壁に寄り掛かって立っているサラマンダーと目が合った。先ほどから落ち着きなく辺りを見回す姿を見かねたのか、サラマンダーが細く尖った顎でバルコニーを示す。それに頷き、ダガーはバルコニーへ向かった。
 外では常より強い風が吹いているようで、いつもならば壁さながらにバルコニーと広間を隔てるずっしりと重い深紅のビロードのカーテンが、小さく靡いている。風を孕んでゆったりと浮いたカーテンの隙間から、月光に黒く染め抜かれたジタンの背中が覗き見えた。
 その姿を目に捉えただけで、心臓から指先まで熱が広がるように安堵の気持が心を満たした。
 ジタンの許に駆け寄りたい衝動が湧くが、カーテンを隔てて満ちる静謐な雰囲気にダガーは少しの間逡巡してしまう。けれど、寄り添いたい気持は抑えきれず目の前のカーテンに手を伸ばした。すると、まるで彼女を招き入れるように風がカーテンを押し広げる。できた狭い隙間に、ダガーはするりと身を滑らせた。
 広間とは対照的な静寂の中にカツリとヒールの固い音が響く。足音が耳に届いているだろうに、ジタンは手摺に頬杖を突いたまま動かない。夜空を見上げ、真剣な瞳で月を見詰めている。
 ジタンが纏う空気を壊してしまうことがないよう、ダガーはそっとジタンの隣に並んだ。
 バルコニーの端に立てば黒々と光る湖が眼下に広がり、その向こうには街の灯りが一面に散らばっているのが望められる。ダガーはこの景色が好きだった。自分の誕生日を祝っていようがいまいが、国民はこの夜はいつもよりも遅くまで起きて楽しく騒ぐ。この日は一日中街が賑わい、国民が笑ってくれる。国民の存在は、いつも女王としての自分を励まし支えてくれる。
 そして、女王としてではない自分を励まし支えてくれるのは、ともに旅した仲間だ。
 自然と浮かんでいた微笑みを収めて、ダガーは隣に立つジタンを見上げた。二年前に旅をしていた頃はダガーと大差ない身長だったが、今は、彼女が高いヒールを履いていてもジタンと頭半分の身長差がある。これが二年の空白だと言ってしまえばそれまでだが、それでも、ダガーの胸までの高さがある手摺に易々と肘を突くジタンは、旅を共にした彼と別人のようにも思えた。
「みんな変わったな。もちろん、悪い意味じゃなくてさ」
 ダガーの心を読んだようなタイミングで呟くと、ジタンはくるりと身体を反転させて両肘を後ろ手につき、再び手摺に寄り掛かった。その視線は広間に居るみんなを見透かすように、重いビロードのカーテンへ向けられている。
「みんな頑張ってたんだよな。自分のために。周りの人のために」
 ダガーは女王として、スタイナーは騎士として、フライヤは竜騎士として、クイナは料理人として、エーコは大公の娘として、サラマンダーは裏社会を生きる者として。そして、ビビは父親として。
「でも、やっぱり、みんな変わってないよな」
 そう言ったジタンの表情はとても柔らかい。
「勝手に消えて突然戻ってきたオレを、すんなりと受け入れてくれる。――オレは自分のことしか考えてなかったのに。身勝手なことばかりしていたのに」
 ふいに、ジタンが顔を俯けた。風に遊ばれた髪が顔にかかって月の光が届かず、すぐ隣で見上げるダガーですら表情が窺えない。
 広間からビビの子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。寝ている兄弟の面倒をみている子が「しーっ!」と嗜めている声も聞こえる。
「――ビビだって、父親として子供の世話しながら……自分の死期が近いことを知りながら、オレの心配をし続けていたって」
 急に強くなった風がよぎり、カーテンが大きく舞い上がった。隔てる物がなくなって差し込んできた広間の光に、淡くジタンの顔が照らされる。歯はギリリと食い縛られており、唇は細かく震えていた。風が去って再び遮られていく光に、音もなく落ちた雫が一瞬輝く。
 数瞬の光景を見守っていたダガーは、ジタンの正面に立つと彼の後頭部に手を伸ばしてそっと引き寄せた。ジタンの抵抗は無く、熱を持った額がダガーの肩に触れる。
「前に言ったでしょう? ジタンが私たちを守ってくれたように、私たちもジタンを守りたいって」
 ダガーの柔らかく細い指がジタンの金糸を梳く。
「ジタンが私たちを思ってくれるように、私たちもジタンを思っていたいのよ」
 ジタンの肩の微かな震えを感じながら、ダガーは続ける。
「誰も、ジタンがクジャを助けに行った事を責めたりしていないわ。二年間身を隠していた事も。――ジタンを信じていたから。ジタンは私たちを忘れたりしないって。ジタンは途中で諦めたりしないって」
 唄うように、ゆっくりと温かい声で話し掛けた。
「だから、自分を責めないで。後悔しないで。自分の進みたい道を全力で走っているときジタンが私たちを信じてくれたように、私たちもジタンを信じて全力で進んでいただけなのよ」
 ほっそりとした両腕を逞しくなった肩に回す。
「ジタンがビビを大切に思っていた事は知っているわ。間に合わなかった悲しさも解かる。――でも、これだけは知っておいて。ビビは子供たちに、ジタンのことをいつも話して聞かせていたわ。ジタンという大切な人がいたことは自分の誇りだって。ビビは悲しんでなんかいなかったわ。淋しくもなかったって。どんなに離れた場所に居たとしても私たちの心は繋がっている、独りじゃない、だから頑張れるんだって言っていたわ」
 ジタンの頭に唇を寄せてダガーが話すと、ジタンは力を抜いてダガーに身を預けたままずるずると両膝をついた。そして、震える声で呟く。
「ダガー、せっかくのドレスが濡れるぜ?」
「あら、覚えていないの? 『オレが泣きたいときはダガーの胸を借りる』って言ったのはジタンよ」
 ダガーがふわりと笑って腕に力を込めれば、ジタンはダガーの腰にしがみつくように腕を回し、胸に顔を埋めた。
 胸元の布地がどんどん湿り気を帯びていくのを感じながら、ダガーは夜空を見上げた。今夜は空一面に薄い雲がかかっているようだ。星はほとんど影を潜め、双子月はいつもより黄色がかって見えた。
 漆黒に浮かぶ二つの金を見上げて、ジタンは何を思い浮かべていたのだろうか。
 そう思ったダガーがジタンの旋毛に頬を寄せようと身動ぐと、離れていくと勘違いしたのか、ジタンはさらに力強くダガーの腰にしがみつく。
「……もう、少し……もう少しだけ」
 うわ言ように小さく頼りない言葉をジタンが一つ零す度、ダガーはゆっくりと深い頷きを一つ返す。
「もう少しだけ――」





この穏やかな抱擁を





NOVEL


2012.05.27