高い山脈の頂から陽が差し込むにはまだ早い、そんな朝方。
朝食のために焚火を整えながら、フライヤは自分の左掌を見つめた。そこには一筋の痕が残っている。何度も毒牙を押し当てているのだから当然だろう。
フライヤと同じ女性であるダガーは、この痕を見る度に苦しそうな表情をする。けれど、何度も解毒魔法をかけてくれるダガーには悪いが、この傷痕が濃くなるごとに自分が強くなっているようで、フライヤはこの痕のことを微塵も気にしていなかった。
ずっと前――フライヤが竜騎士となってすぐの頃――に竜騎士最高奥義『竜の紋章』について教えてもらったことがあった。竜系モンスターを倒す度にその牙を利き手に当てると死の間際に竜が放った怨念が身体に染みついて、それがある程度の強さに達すると最強の竜の耳に届いて武勇を認められ、少しの時間だけその竜の力を借りることができると。以前に物知りモーグリが「敵の攻撃に込められた恨みや憎しみなどの負のパワーを蓄積し、闘いの力に変えるのがトランスだ」と教えてくれた。それと少し似ていると思う。
「おはよう、フライヤ」
背後からの声に振り返ると、眠たげに目を擦っているビビが立っていた。
「おはよう、ビビ。コーヒーでも飲むか?」
「うん、飲みたいな」
水とコーヒーの粉末を入れた鍋を火にかけて椅子代わりにしている倒木に座ると、フライヤに寄り添うようにビビも腰かけた。その身体は小さく震えている。
「ビビ、寒いのならこれを羽織ると良い」
フライヤが自分の外套をビビに着せれば、思った通り、パーティーの中でも二番目に長身のフライヤが愛用する外套は小柄なビビには大き過ぎた。けれど温かいことには変わりないだろう。
「あ、ありがとう。でも、これだとフライヤが寒いんじゃない?」
「この後のことを思えば、多少寒いくらいの方が身が引き締まっていいじゃろう」
現在、ジタン一行は最後の決戦を目前にして旅の進行を止め、各々の能力を高めるために旅をしている。その中でフライヤが『竜の紋章』の存在を伝えたため、ジタン・ダガー・ビビ・フライヤの四人はポーポス高原で数日を過ごしていた。残りの四人は都市部で物資の調達や情報収集をしたり、鍛練に努めている。
ジタン一行は、ひたすら竜系の魔物の中で最強と謳われるグランドドラゴンを倒す日々だった。フライヤにとっては大きな実りのためであるが、それに付合ってくれるジタンたちに掛かる負担は大きい。経験を積むため、軍資金集め、攻撃や防御のコツを掴むため、などと理由を付けてくれる彼らに嬉しさを覚えるが、申し訳ない気持ちもある。
「んー、いい匂いだな!」
「おはよう、ジタン」
「おはよう、ビビ、フライヤ」
「ジタンも飲むか?」
「ああ、飲むのむ」
ジタンはフライヤの隣に腰掛けたかと思うと、小さくクシャミをして大きく鼻をすすった。
ポーポス高原はブルメシアがある盆地に面した高原で、降雨量の多いブルメシアと同じく湿度が高い。そのため、ただ寒いだけでなく芯からかじかんでいくような寒さだ。夕方や朝方に見張りに立ったビビとフライヤならまだしも、深夜の見張りに立ったジタンとダガーは辛かっただろう。けれど二人とも、幼いビビと修行に集中しているフライヤに楽な役を回してくれている。
「すまぬな、いろいろと負担をかける」
「気にすんなって。それぞれが強くならなきゃいけない時期なんだからさ」
ジタンならそう言うだろうと思っていた。
けれど、少しいつもと違う気もした。どこか、落ち着きがないような。
「……ジタン、昨夜何かあったのか?」
「いや、なんも。霧が戻ったせいか、リザードマンが三匹盆地から登って来たけど、ダガーもいたし、どうってことないさ」
「おぬし、ダガーの見張り時間にも起きておったのか?」
「ちょ、ちょっと待て、変な勘繰りすんじゃないぞ! ただ眠れなかったから火に当たっていただけだって!」
「フライヤ、ジタン、コーヒーできたよ」
倒木から飛ぶように下りて、ビビがコーヒーの上澄みを掬う。すると、ジタンは大袈裟な動作でビビの手から杓とカップを奪うと、手ずからコーヒーを注ぎだした。
「ん?」
その首元、白いシャツの襟元に浮き立つように、黒髪が貼り付いていた。
ジタンは澄んだ蜂蜜色の金髪だ。フライヤは自分でも気に入っている綺麗な銀髪。ビビは論外だ。今いるパーティー、いや、それどころかパーティー全員に、あの程度の長さの黒髪を持つ者は一人しかいない。
(けれど、なぜ、あんな場所に髪が?)
思い当たる体勢が無いわけではないが、その状態の二人を想像しても納得がいかない。二人の間に信頼が築かれているのは知っているが、彼らはこの旅独特の緊張感の中で譲らない一線があり、踏み出さない一歩がある。そもそも身分に天と地ほども格差があるから、互いに自らを律している部分もある。やはり、納得がいかなかった。
思わず、口元に指先を当てて思案に耽りそうになったとき、
「どうしたの、フライヤ?」
両手にカップを持ったビビが、首を傾げてこちらを見上げていた。その小さな肩を包むようにフライヤの外套が掛かっている。
(……なるほど、そういうことか)
なんてことはない、ジタンとフライヤは同じことをしただけだ。
コーヒーの香りに微笑むフライヤの頭の中に、寒さに身を震わすダガーと彼女を労わるジタンの様子が思い浮かんだ。
「いや、なんでもない。……ただ――仲が良いのは好ましいことだ、と思っただけじゃ」
ビビはまだ、不思議そうに首を傾げていた。
お持ち帰りは戒様に限ります
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