「陛下、準備が整いました」
 部屋に入るなり、スタイナーはそう言って敬礼する。
 相変わらず鎧姿のスタイナーだが、今日はその鎧も細部には金の紋様が施されていたり飾りが付けてあったりと華やかなものに変わっていて、実用の他に飾り用の剣も携えている。
「私も、すぐに出られるわ」
 迎えたダガーが執務机のペン立てにペンを戻して目配せをすると、すかさず侍女が外套を持って来た。いつもならば動きやすく質素なドレスを纏っているダガーだが、スタイナーと同じく彼女も今日は豪奢な仕立てのドレスを着ていて、装飾品も嫌味でないほどに華やかなものだ。
 午前の執務を終えたダガーは、これから、スタイナーが率いる隊に護衛された馬車に乗って城下の市を回る予定になっている。
 今日は一月一日だ。
 アレクサンドリアでは一月一日に城下の大通りで市が立ち、新年を迎えた喜びに財布の紐が緩んだ者を狙った高価な品や縁起の良い品が並び、それだけでなく、大道芸人の団体や日用品の店も並ぶ。また、アレクサンドリアの男たちには、新年を迎えたら女性に「今年一年、美しく咲き誇れるように」という願いを込めて花の蕾を送る習慣があるため、通りに立つ花屋という花屋には蕾ばかりが溢れ返るのだ。
 ダガーが最後に新年の市を回ったのは何年も前のことだった。夫を亡くしてクジャと出会ってからのブラネは、自分が市を回ることもダガーに市を回らせることも止めてしまった。それに、昨年は市自体が立たなかった。
 小さな頃の思い出と変わらないならば、城に帰る頃には、ダガーの乗る馬車には擦れ違う国民が贈ってくれた蕾が溢れていることだろう。そして、その花々が咲き、散りきった頃にはダガーの誕生日が来る。
「陛下、どうかなさいましたか?」
 廊下を歩いているときに顔を引き締めながらも笑んで尋ねてきたスタイナーに、ダガーは首を傾げて窓を覗いた。曇りの欠片も無く磨き上げられたガラスにぼんやりと映った顔には、微笑みの欠片が残っていた。どうやら、知らず知らずのうちに微笑んでいたらしい。
 ダガーは何とはなしに顔を触りながら、先ほど目を通した手紙の内容を思い返す。
「今年の式典には、おじ様もブルメシア王も例年より早くいらっしゃるそうなの」
 持て成しが好きなダガーとしては、仲の良い知り合いが長く自国に滞在してくれることは嬉しい限りだ。
 今は亡き父母も、客が来ることを喜んでいた。客が来るということは、自分にそれだけの親交があり、持て成すだけの国力があるということの証左だと2人は言っていた。――つまり、ガイア全土を巻き込んだ戦いの傷は、ここまで回復したのだ。
「シド大公はわかりますが、ブルメシア王は何故でありますか?」
 シドはトレノ貴族へ挨拶をしておきたいのだろう。
 昨年の年明けにトレノで賊が多く出るという事件があり、その賊がことごとくリンドブルムへ逃亡したために国際問題へ発展しかけたことがあった。当時、リンドブルム側のその地域の担当軍人が国を離れていてリンドブルム軍内ではゴタゴタとしていたらしいが、結局タンタラスの協力もあって賊は討伐できた。しかし、相手は腹に一物も二物も抱えているトレノ貴族だ。シドも慎重になっているらしい。
 折に触れては様子を訊ねていたことはスタイナーも知っているので、シドが長期滞在することに疑問は抱かなかったのだろう。しかし、ブルメシアは別だ。
 実をいうと、ダガーも手紙を開くまでは内心で首を傾げていた。パックが即位したばかりだったので挨拶も兼ねてのことかとも思っていた。が、そうではなかった。
「我が国と討議なさりたいことがあるそうよ。他国の法に口出しすることが差し出がましいこととは承知しているが、さる罪人の処遇について検討してほしいことがある、と」
「……ま、まさか」
「ええ。明確なお言葉はなかったけれど、おそらくベアトリクスについてのことだと思うわ」
 ベアトリクスがアレクサンドリアを出てブルメシアで刑罪の日々を送るようになってから、二年近くの時間が経つ。
 オーディンの攻撃によって姿を消してしまったクレイラの大樹は、地面から上は消失してしまったが幸いなことに根は無事だったためブルメシアの復興活動と並行して育成が行われて順調な成長を遂げ、人が住むまでには至っていないものの昔の面影を有すほどの大きさまでになっているそうだ。
 その活動にはベアトリクスを始めとする、霧の大戦でブルメシアとクレイラの侵攻軍に所属していた者たちが多く参加している。国外追放を言い渡されたベアトリクス以外の兵たちはいつでも本国に戻ってもいいのだが、彼らもベアトリクスとともにブルメシアへ渡ったまま厳しい待遇の下で生活を送っている。その数はベアトリクス隊の過半数に上り、ベアトリクス隊は解隊を余儀なくされた。
 それから二年だ。――霧の大戦が終局を迎えて二年。
 世界は前に進みだしていた。
 戦いによって深く刻まれた傷跡は、既に馴染んで当初の生々しさを呈すことはなくなっている。戦いによって傷付いた物には手が入れられ、傷付いた者は前を見ることができるようになった。
「そういえば、先日部下が仕入れた情報によれば、今年のタンタラスの演目は『君の小鳥になりたい』の『誓い』と『船出』の幕だとか」
「そう……」
 世界は前に進みだしていた。
 霧の三大国のうち二国の国主が変わり、唯一変わらないリンドブルムは忘れ去られた大陸で発見した鉱脈によって世界的な鉄不足を解消し、さらに勢力を伸ばしている。
「……それは、楽しみね」
 世界は前に進みだしている。






NOVEL


2009.01.01
last-alteration 2009.03.05